以下は2014.2.25のpostの転載です。
人生の価値とは何か。
現在の僕は、どれだけその人が「幸せ」だったか、で人生の価値が決まると思っている。
横軸が時間で縦軸が幸福度であるグラフの積分が、その人の人生の価値だ。
しかもその「幸福度」とは、他人の評価でなく、その人自身による評価だ。
金持ちでも自分を不幸だという人がいる。
貧乏でも幸せだと思う人がいる。
どちらの立場をとりたいかと問われれば、僕は後者と答える。
以下は2015.7.2のpostの転載です。
「情報の消費者」という概念を発案した。未否定仮説と言うことで。自分メモ。
たぶんどっかの哲学者はとっくに考え付いているだろうから得意になるわけではないけど、面白いから考えを進めてみる。ブレスト。
「情報の消費者」は自分からは意味のある情報をほぼ生成しない。周囲の情報を摂取し、それに基づいて行動する。思考せず、周囲の情報をコピペすることで自分の意見を構築する。
また、常に情報を求める。「情報の消費者」は有益無益を問わず情報を欲する。また、その情報はセンセーショナルなものがより好まれる。
食の好き嫌いにも似て、「偏食」である者が多い。センセーショナルで刺激が多いものは「味が濃い」、スピリチュアル的、暴力的、それぞれに「味」があると考えてよく、それぞれ好む者はその味ばかり摂取する傾向がある。
「情報の消費者」がいれば当然「情報の生産者」が想定できる。これには主にテレビや新聞等マスコミが挙げられる。「情報の生産者」は、「情報の消費者」の嗜好をくみ取って、流行りの「味付け」や過剰な量を生産する。
物の生産とは異なる点に、情報を消費するのに対価が無いことだ。「情報の消費者」はしばしば無料で情報を得るが、この際払う対価と言えばせいぜい「余計な情報」くらいのものだ。すなわち、「情報を消費する」ということ自体が利益を生む仕組みになっている。
少し話が広がりすぎたか?面白いけど、少し精査しよう。
以下は2014.3.16のpostの転載です。
思うんだけど、
どんなにしょーもない言葉や物であっても、それをありがたがろうとして思い込めば、それによって幸せになったりするわけじゃん?「鰯の頭も信心から」ってさ。
だから、究極的には、ある作品の価値って言うのは、その作品自体だけでは成立せず、流通や宣伝コピーも含めて、総合的に得られるものなんじゃないかと思える。
だとすれば、「障害者が作った楽曲」という下敷きをもって楽曲が評価されたときには称賛されて、そうでなかったら凡作、というのは成り立つと思う
武者小路だか河内守だかわかんないけど、とりあえず嘘ついた人は悪いんだけどさ、ストーリーを含めて「これは傑作だ~」って言ってた人を責める必要なくない?
評論家の立ち位置は知らん
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