2019年3月31日日曜日

自身のアイデンティティについて

以下は2014.1.28のpostの転載です。

自分の思想群を「線形心理学」とでも呼ぼうかと思う。
「人の心は複雑」だけでは、僕の心は落ち着かない。
なんとか定義の方法を工夫して、四則演算できるところまで持っていきたい。
計算するためには、変数の定義や、正負の符号の定義などから構築しなきゃいけないからめんどうだけど、そこは趣味だから。
細かい定理や法則を積み重ねて、体系化したい。



以下は2014.3.11のpostの転載です。

「自分をわかるためには、
 自分が「何」であるかを考えるのではなく、
 自分が「何」を失えば、自分でなくなるかを考えるとよい。
 
 ところで、中原さん
 中原さんは「何」を失えば、中原さんではなくなりますか。」以上引用
自分が「何」を失えば、自分ではなくなるのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/06/post_1257.html


これ、良いな。

僕は何を失えば自分で無くなるか。
「素直に評価すること」「とりあえず気持ちだけでも楽しもうとすること」「歌うこと」「考えること」
こんなところかな。

歌って楽しんで素直に考える。
うん、僕だ。




以下は2012.6.24のpostの転載です。

「生命」ってのは、「流れ」に宿ると思っている。
 死んだ人間は、どこで死んだと判断されるか?「流れ」が無くなったという所だ。血液の「流れ」が無い。意識の「流れ」が無い。瞳孔が正常に反応しないのは、神経の「流れ」が無くなっているからだ。
僕はこの考えを得てから、テレポートについての知見が固まるに至った。「別の場所に、僕の体と同じ構造を原子レベルで再現しても、そこに『僕』は現れない」。そこには、流れが無いからだ。しかし、「流れ」をも再現するようなテレポートがあれば、生命の再現もできるだろう。
 また、「魂」はこの「流れ」自体である。「身体」は、言うならば「流れ」ている物、「流れ」る場所、である。それらは両立してこそ意味があり、片方が止まればもう片方も存在できなくなる。



以下は2015.11.5のpostの転載です。

「日常生活をする」ためには、複数の不自然なルールを頭にたたきこんでおく必要がある。
僕はこれを時々、忘れる。
対して、忘れない人もいるのだろうな、しかもその方が多数派なのだろうな、ということは、これまでの人生の経験の中で学んでいる。

例えば、「人前で歌ったり踊ったりしてはならぬ」とか。「一緒に歩いている者が横断歩道でない所を横断しようとしても、それを止めてはならぬ、さらには一緒に渡る必要がある」とか。
これらのルールは生きるために有用である、が必要ではない。ルールは地域によって異なり普遍性は無いし、必然性も無い。

僕らは、「日常生活」の中ではこれらを遵守しながら生きているわけであるが、はてさて、その姿は本当に「自分」だろうか。複数のルールの縛りの中で生活していて、そのルールの外のことを知らない「自分」は、完全だろうか?
「自分探しの旅」というのは、そういう意味で価値があるのではないか。いったん、ルールから離れてみて、世界がどのように見えるのかを試してみる。自分がどのように生活できるのか、やってみる。最終的には、「なぜ、ルールがあるのか」を自問自答する。

僕らは、若いうちに必ず、それを確認すべきではないのか。そうでないと、ルールの中で生活していくことしか知らないまま成長し、ルールの枠内で自分を構築していくことになる。特に問題は生じないかもしれないが、ルールの有用性を自分で見つけることが不可能になる。「自分で考える」という機会すら、無くしてしまうかもしれない。
自ら様々なものを定義し、その意義を考え、唯一性を考察し、代わりになるものが考えられるのなら、なぜそれに取って代わらないか理由を考え、世界の在り方を問う。自分の在り方を問う。

ルールを時々忘れるのは、実は悪いことばかりではない。「なぜ、してはいけないのだろう」「なぜ、しなければならないのだろう」と、確認する機会が増え、自然と自己への洞察が培われていくのだ。



以下は2017.4.30のpostの転載です。

一行しか読めない人のための要約:他人はどうか知らんけど、僕はいわゆる「夜景」などに価値を感じない。

夜景は美しいものである。
ライトアップされた桜とかタワーとかは美しいものである。
イルミネーションは美しいものである。

……といへり。
なんか、世間での常識というか、そういうアレで、「美しいものである」ということになってるわけだけども。
僕は全然そういう気持ちにならんので、複雑である。
さすがに、もう大人なので、他人に合わせて「あーそうだね綺麗だねー」とテキトー言っているが、本音は「価値なし」である。函館みたいに、地形が光によって浮き彫りになるのは、興味深いと思うけど、そういう要素の無い夜景に価値を感じない。

もちろん、好みの話なんだがな。
蛍は毎年見に行くし。花火は芸術的な意味あると思うし。
人間の、「火」に対する本能的な親しみの現れなんだろうな。僕はそれを感じないってだけで。



以下は2017.4.11のpostの転載です。

僕が死ぬときはホント
何でも無いようなどうでもいい事故で
死後にネタにされるようなバカみたいな死に方が良いな
岸壁で寝てたら落っこちて溺れて死ぬとか
軽自動車で50km/h制限の道を100km/hで走ってスリップして壁に激突して死ぬとか
死ぬときは絵にならないで死にたい。



以下は2017.1.24のpostの転載です。

「大学時代にやっておくべきこと」みたいな本を読んだことがある。
幸いにも、大学時代に。

「ひとりになること」というのが重要な項目の一つとして上げられていた。
集中して物事を考えるには、余計な刺激から意識を遠ざける必要がある。
そしてそのためには、スマホを置き、一人になれる場所を持つことだ。
そこで自分を見つめることで、考察の力と、孤独に耐え打ち勝つ力を得る。

僕は田村ゆかりのライブに大学3年時に行き、旅の道中で孤独を経験した。
そのときからかな。「旅は孤独を感じるためのものだ」というような意識を持つようになったのは。



以下は2014.4.7のpostの転載です。

僕は暗いところを好む。食事をするときも、本を読むときも、僕は暗い所の方が落ち着くのだ。

僕は職場で昼食をとる時、弁当を食うのだが、場所は自席でなく、奥の物置き兼打ち合わせ室みたいなところでとる。理由はいろいろあるが、簡単に暗くできるのもその一つだ。
物置きでもあるので、時々昼休みの時間に課の人間が出入りする。その際、電気が点いてないのに人間がいることに驚き、「暗いでしょう?」と声をかける。「ええ、暗いのが好きなので。」と僕は返す。彼(女)は電気を点けて自身の用事を済ませ、そのまま出て行く。僕はすかさず電気を消す。
何かの用事で彼(女)が再び物置きに入ってくると、また、「暗いでしょう?」。まるで、電気を点けておくことが良いことのように、恩着せがましく電気を点けておくことを主張し、僕が否定して、もう一往復ほどのやり取りののち、相手は釈然としないような感じで部屋を出て行く。

常識では、人間がいるところには電気が点いていないといけないという文脈があるようだ、どうやら。しかし、僕はその文脈にはそろそろうんざりしている。

0 件のコメント:

コメントを投稿