2019年2月2日土曜日

アニメ感想「魔法少女育成計画」

以下は2017.1.19のpostの転載です。
「魔法少女育成計画」のアニメを見終わった。
ルーラが可愛かった。


キャラクターデザインは悪くないと思う。また、各キャラクターが活躍する場面がちゃんと描かれており、キャラ名が覚えやすかったのもよかった。
魔法の能力も、活用次第では皆非常に強くなる発展性を垣間見られて面白かった。
しかしとにかく設定が雑。世界設定も雑。「このラノ」文庫程度、というべきか。


以下感想。


世界設定が雑で本当にむかつく。
結局、クラムベリーとファヴとの思惑だけで、殺し合いにしちゃってるわけで、必然性がない。魔法の世界とやらも全然具体性がないし、人助けとやらもストーリーの伏線にしか使われない。寿命を賭ける設定も、何の意味もない物で、どのような影響があったのか語られないし、単に主人公をビビらせるためだけの設定にしか見えない。
結局のところ、「魔法少女が殺し合いしたら面白いナア」という、ファヴ=筆者=クラムベリーが遊んでいるだけで、「『それ』によってしか描けないこと」というものが無かった。
人材発掘が目的のはずなのに、エージェントのファヴが率先して2人も殺しちゃって何してんの。しかも片方は非常に大きなポテンシャルを秘めたネムリンだったぞ。お前。マジでただ面白がってるだけだろ。
途中で主人公が疑問に思った「魔法少女」(概念)についても掘り下げなし。まあ、年齢もスイムスイムからカラミティ・メアリまで様々、どこから力が出てくるかも何を目的に活動してるのかも全く不明では、投げっぱなしにするくらいしかできないか。「みんなが憧れる魔法少女」、そんなのは「魔法少女まどか☆マギカ」の3話で死んだのだ。今更振り返る者はいない。

で。
結構、僕はスイムスイムに同調する気持ちがあって。
しかし、僕がスイムスイムの立場にいたとしても、ルーラを超えることはできないと理解すると思う。僕ならクーデターはしないだろうな。スイムスイムはユナエルを途中で死なせたことについて悔いていたし、ルーラだったらもっとうまくやれた、と感じていたのは実際そうだと思う。しかしルーラも、直接の殺し合いになってからも変わらず統率力を発揮できたかどうかは疑問。スイムスイムの冷徹さは、その意味でルーラをしのいでいたのかも知れない。
殺し合いになった直後までしか生きながらえられなかったとはいえ、ミナエルやたまの能力を独力では十分に発揮させられなかったのが残念だった。ミナエルのアシストによるアリス戦勝利、たまの大金星は、ルーラが最初からその特性に気づいていればルーラ陣営が無双していた可能性も示唆する。最終的には、1人に絞られるわけで、本気でルーラ陣営が殺しあったら誰が勝つかわからないけれど(エンジェルズ以外)。

後半のエピソードでルーラへのフォローが多くあったが、邪魔な話だと思う。ルーラがたまと同様にエンジェルズを教育していたとすれば、エンジェルズはそれほどルーラを疎まなかったろうから、たまへの熱心な教育はむしろ不自然だ。それに「悪い奴と思ったけど実はいいやつ」みたいなフォローはまほいくには似合わないと個人的に思う。姫は姫であり、高慢で不遜であってほしい。

ラ・ピュセルは男の娘としてかなり優遇されるはず!と思ったらけっこう序盤に普通に死んでびっくりした。まあ、こういう非情さこそがまほいくの味なんだろうけどね。

スノーホワイトが終盤でブチ切れるのも十分わかるわ。ここで「自分がマスターになって、次の選抜試験は誰も殺させない!」ってなれば、最初から最後まで「魔法少女まどか☆マギカ」だなあと思っていたが、そこは変えてきたんだね。

カラミティ・メアリの変身呪文、わりと好きだし、これはこれでかっこいいと思う。

全体的に、各人の能力は活用次第で効率的に人殺しができるようになってるのが面白い。これもクラムベリーとファヴの趣味か。
まあ……「ワインをおいしくする魔法」とかはまほいくには導入されないわな。



「魔法少女育成計画」のルーラを観察したことで、「意識高い系」の定義にようやく決着がつけられそうだ。
「意識高い系」といえば、その本人の趣向・哲学に目が行きがちだが、その本質は「哲学が無い者の考え方を想像して行動できない」または「コミュ力が実力水準未満しかない」という部分だろう。
「意識高い系」とは、「オタク」と同様蔑称だ。それは単なるレッテルであり、幼稚な悪口である。「意識高い系」と言われた者が「意識高い系」なのであり、それ以外ではない。その共通点は「嫌われている」ことだ。
おそらく「個人的に実力がある者」にはふた通りいて、一方はコミュ力も十分にあって苦労なく他人を使役する(綺麗な言い方をすると、『協力を得られる』)が、もう一方はルーラのように愚民の考え方を想像して指示できない、または操作できないのだろう。
本人の実力の差を飛び越えて、前者は後者よりもより結果を残せる。逆に言えば、コミュ力こそ実力の一部であると言い換えられよう。

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