2019年3月31日日曜日

いじめについて

以下は2015.10.24のpostの転載です。

他人のPOSTのコメントで

「いじめられるべき奴」がいじめられている状態、

これを「いじめる奴」は欲している。そして、それを成立させるためにいじめているのだ。つまりいじめること自体は正確には目的ではない。


って書いたけど、思い付きにしてはわりとマシなこと言った気がするので精査して考察に加えよう。




以下は2016.6.2のpostの転載です。

舛添の動向についてのテレビ報道を見ていると、ただのいじめであること・みんながいじめを待ち望んでいるということが非常によく伝わってくる。




何かの問題があれば、もちろん、責任を負う者への追及は必要。しかし、その報道内容は子供と見紛う低俗さ加減、いや正義の御旗を振りかざして行っている分、それ未満と言える。

不正な(と考えられる)会計を指摘する場合では、無駄に地図のパネルを持ってきて「ここへの出張についての問題です」と示してくれる。行き先関係ないだろ。

釈明会見でも、内容をそっちのけで、「同じ言葉を連発していました」だと揶揄する。それも全然関係ないし、むしろ同じ言葉が出てくるのは正確を期す時に良くあることだ。

しまいには「心理学者」まで持ち出してきて、舛添の心理的内容まで暴こうとする。もはや政治とは何の関係も無い、つるしあげ一辺倒の報道で大変不快だ。




で、無論、これを望んでいるのがさらに下のレベルを行くバカな視聴者だ。都議会の傍聴席がいっぱいになったのがその表れであり、しかも「こんなに混むのは猪瀬元都知事の辞任以来」というから、どれだけクズどもがいじめ大好きかが知れるというもの。


こんな「大人」が、テレビが、「いじめはダメだよ」だなんて、口が裂けても言えるもんではないだろう?





以下は2016.6.2のpostの転載です。

引用始「このような例が、蓄積されず、研究対象とならず、伝播していかず、「素晴らしい先生」の一実践の終わってしまうのが、教育界の最大の欠点です。

 そこを何とかしたいと痛切に思った一日でした。

」引用終

これだな……

この「いじめ対策」はすごい!

http://www.moriguchiakira.com/entries/2009/05/20

「7 いじめの事実を認め、「泣くまで」反省した加害者は、通常、被害者に謝りたくなるのですが、
 すぐに謝らせることはしない。
 ※ すぐに謝ると加害者が「すっきり」するからです。

8 少なくとも一週間の時間を置いて、加害者に謝ることを許す。
 ※ 被害者にとって、加害者から謝ってもらうことは大きな癒しになるという報告を別の会合で聞きました。」






以下は2014.12.27のpostの転載です。

二行文盲のための要約:「人生におけるコミュニケーションは、しばしばTRPGで説明でき、僕らはそのプレーヤ(ときどきGMを兼務)だ。」


自前の「未否定仮説」だなんて言えないくらい、繰り返されてきた議論だけど、

日本人って(もしかしたら人間皆そうなのかもしれないが)、常に「その場における自分の役割」(ややこしいので以下『ロール』と称す)を演じているよね。そのロールに基づく発言が「建前」であって、それによらない、個人の考えが「本音」なのだろう。

たとえば、ある弁護士Aが、被告人Bの弁護をするとして、Bが無罪を主張していればAはBの弁護をせねばならぬ。いくらAが本音をどのように持っていようと、だ。




おそらく、高度に完成された社会ほど、本音と建前の使い分けは必要になる。全員本音を言ってそのとおり暮らしたら、ロールによって成り立っている社会システムは崩壊し、誰も働かないからだ。そして、本音を言う人が増えれば増えるほど、建前でコミュニケーションを取っている人間が割を食うことになる。

これによって本音を言うものが排除されるのではないか。




さて、そもそも「ロール」は誰によって決められるかというと、TRPGではGM(ゲームマスター)が決めることになる。GMは参加者が面白く遊べるように、ゲーム内のルールを曲げたり、パラメタをいじったり、イベントを起こしたりする。そしてGMが決めたルールを遵守する上で起こる事象は「面白いものである」という暗黙の了解がプレーヤの間で在る。




世の中、TRPGなんじゃないか。GMは持ち回りになる場合もあるし、PCを兼務しながらの場合もある。現実って、これなのではないか?

僕が頻繁に考察する、「いじめの発生時における条件」にも適用できそう。いじめは、その場における”GM”が、いじめイベントを発生させ、ある人にいじめられるロールを押し付けることから始まるんではないか?

いじめられるも者は、別の者にロールを押し付けることができない(それができるのはGMだけ)し、そのロールから逃れる手段といえば「ゲームから降りる」ことしかない。このことが、どのように考察できるかは、別の機会に考えよう。しかし、「ゲームから降りる」ことの恐怖は、いじめロールを続ける痛みよりも、おそらく、大きい。





以下は2017.2.25のpostの転載です。

NHK教育(いや......『Eテレ』か)の「いじめをノックアウト」という番組が、気が遠くなるくらい良い番組なので、マジで学校教育の道徳の時間に毎時間流して欲しいと思うくらいなんだけど。10分番組なので時間も適切だろ。




受信料に見合う価値のある番組なので、ぜひ他の人にも見て欲しいのです。年度で放送スケジュールが組まれてるけど、話題はほとんど1回完結だから問題ない。




いじめが起こるときのきっかけ、SNS上での意見の食い違い、いじめをし始めるときの気持ち、いじめられた者の選択肢の少なさ、止める方法、等等毎週土曜朝はこれを見ている。朝早い番組だから録画だけどね。しかも再放送だけどね

MCは、本放送時ではAKB48総監督だった高橋みなみ。ベストキャストである。誰がなんと言おうとこの番組の適役はこいつ以上いない。AKB内での軋轢も見てきているし、年齢が子供と近いから感覚も理解されやすい。SNSの問題点も把握しているし、AKBの総監督として「一歩引いた立場」でものを見るのに慣れている。

また、たかみなだから言えるさばさばした意見も素晴らしいし、無駄にしんみりすることも無い。10分番組だからそんな余計なこと言ってる時間は無いってのもある。他の、いじめをテーマにする番組で散見されるのは、「いじめられてるヒトってこんなにかわいそうなんだよ~ほらほらかわいそうでしょ」って言って番組のキャストが泣いたり訴えたりするやつなんだけど、そんなの何も、1ミリも伝わらんからね。いじめはバラエティじゃないんだわ。




「“いじめたい気持ち”ってどこから?」という話題で、たかみなが「楽(楽しい。また、楽な方向に向かおうとするといじめになりやすい)」という意見を出したのに感銘を受けた。「こいつがMCやってるならこの番組は価値がある番組だ」と思えた。

他では、「LINEのトラブルをさけるには?」という話しの中でたかみなの意見が冴えてた。AKBのファンだったことは無いが、たかみなは個人として尊敬に値する。




LINEのトラブルをさけるには?

http://www.nhk.or.jp/tokkatsu/ijimezero/shiryou/2016_008_01_shiryou.html

障害について

以下は某記事の転載です。

聴覚障害者の聞こえの可視化
http://news.livedoor.com/article/detail/8534242/




以下は某記事の転載です。

年収1000万の発達障害者が「ADHDのタスク管理術」について語ってく
http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/50407478.html





以下は2013.6.17のpostの転載です。

乙武入店拒否(笑)問題に「勇者と魔王」モティーフを見た。

「勇者と魔王」モティーフに、「魔王を倒した(あるいは、旅を制覇した)勇者は非常に強い」というものが頻出する。

「BOSS DEATH」というボカロ曲( 【PV】 Boss Death歌ってみたver.バルシェ【DLM】 )に

「山ごと切り裂く刃でリンゴを剥く 待っているのは何て歪んだ暮らし
海ごと焼きつくす炎で暖炉に火を灯す 力とはそういうものでしょうか」

と歌われているのがわかりやすい。



大きな力を持ってしまったら、それを捨てるか封印するまで現実の歪みはなくならない。まして、力の行使者が「勇者」であるときは特に。




乙武は今回、このような立場にあったろうと思われる。「五体不満足」という旅を紹介し、乙武は「勇者」となった。「仲間」や、彼を支える世界中の支援者とともに。

そして、その大きすぎる力をふるって「暖炉に火を灯した」。理由は「仲間を守るため」である。

ナマ身の生物にとって、大きすぎる「力」は、やはり邪魔でしかないのだと感じた。


乙武氏に名指し批判されたレストラン、毎日のように無言電話の被害受ける/痛いニュース
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1763977.html







以下は2014.7.30のpostの転載です。

うつ 薬 自殺企図 わたしの経験 https://www.youtube.com/watch?v=Dlywmq8GbeQ


まあ、良くある話で。
「自分がこのような経験をしたのだから、他の人についても全て一般化できる」

という暴論がはびこります。

この人については、過剰な投薬をされたことで、思考にロックがかかっていたのはほとんど本当なのだと思います。

しかし、「鬱」の一言で片づけられがちな症状は、人によって差があり、ケースによっては、やや多いかな?と思ってしまう量も必要となることもあります。

この人は、実は自分で気づいているのですが、「100%信じる」「100%疑う」ということしかできない状態です。自分が良い状態にある時に体験したことを元にしたら、たまたま「(多量投)薬は悪」という結論に至っただけです。

更に、この動画の大変罪深い点は、悪かったという結論が出てるのは「多量投薬」だけのはずなのに、勝手にそれを「薬全部が悪い」「精神医療全部が悪い」「政府が悪い」と話を過剰に拡大していっていることです。これを僕は「坊主-袈裟理論(坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い、という意味)」と呼んでいます。これによって勝手に「薬を飲まなければ良くなるのか!あの医師、自分を叱ってばっかいるし、きっとこの動画の人みたいに、薬飲むのやめた方が症状良くなるよなー」なんて最悪な勘違いを呼ぶ可能性があります。

薬を飲んでないのは治療を始める前の状態と同じであり、治療が必要だから医者に行ってるわけです。冷静に考えればわかるはずですが、心理的な病気ということもあり、この話を盲信してしまう人は一定の割合でいると考えます。

薬飲むのを勝手に止めて症状が重くなった例も人格が崩壊した例も知ってるので、できればそうした例が少なくなってほしいのです。




以下は2015.6.3のpostの転載です。


差別の話題が出たので。




僕にとっては、わりと差別の話題は身近。だってもうすぐですよ。「障害者差別解消法」が施行されるの。リンク先は、「日本障害フォーラム」という団体が作ったパンフレット(.pdfファイル)。全編読んでほしいけど、とりあえず11ページをご覧ください。




引用始「この法律が禁止する差別は?(以下適宜略)

(1)不当な差別的取り扱い

(2)合理的配慮を行わないこと」引用終




まとめると、「障害と関係ない事物のことで、不当に障害者の権利を取り上げてはならない」「障害者の権利を守るために、その対応をする人は、代替案が無い場合は無理のない範囲で合理的配慮を行わなければならない」ってこと。




このあたりにおける、「障害」を、「人種」や「性別」等に換えてもある程度は意味の通るものになると思う。




それを踏まえて、「差別」を次のように考える。

「誰かの特徴、特性、境遇を知った上で、

自分には認められている権利(ここには『人権』が主に問題になる)について、

彼の権利を無視、または意図的におとしめること。」




今書いた文章だから、突っ込みどころは大いにあると思うので、その辺は勘弁。ただ、ブラッシュアップして行きたいからどんどんツッコンでほしい。




以下は2016.9.27のpostの転載です。






発達障害の人と関わっている際に、”健常者”のことを「定型発達」と言う。

もちろん、発達障害、もしくは自閉スペクトラムのうち自閉傾向の強い人たちに対して差別的にならないよう用いる語なんだけども、その「定型」ってなんだよ、と思う。




自閉的な要素は誰しもが持ってるわけで、その発現の程度は連続的だ。




どの要素があれば「非定型」なのか?どこまでが「定型」なのか?「定型」って何だ?診察する医師にとって「自分と異なる」のを「非定型」と言ってるだけなのではないか?

医師はそんなに正義なのか?医師と異なったら障害なのか?それが「精神障害」なのか?だいたい、特徴づけられる発達障害のパタンはいくつかあるのだから、それこそ「定型」と名付けるべきなのではないか?




健常者の一方的な理屈には、時々閉口する。

宗教観について


以下は2016.4.23のpostの転載です。


後輩「宗教なんて信じてる奴マジアホじゃないっすか~?」
ぼく「お前ん家、墓ある?」
後輩「あるっすよ○×寺(曹洞宗)に」
ぼく「お前もし死んだら死体は野ざらし?それとも葬式やる?」
後輩「たぶん葬式はやると思いますよ○×寺で」
ぼく「で、お前宗教はなに教だっけ?」
後輩「だから宗教とか興味無いって言ってるじゃないっすか~wwww」





以下は2013.9.14のpostの転載です。

「宗教」って何やねん?


「宗教」というのは、なぜ必要なのか、
という問いに、僕は
「人生における理不尽をなんとか受容するため。」
と答える。

ここで、僕がいくつか「未否定仮説」を立てているのは、
僕が生きていて疑問に思ったことについて、自分が納得できるまで突き詰めて考え、自分の言葉で(仮の)答えを出すためである。

僕は、僕個人用の宗教を作ってるのだろうか。
僕は、僕が立てた未否定仮説とそれに立脚する定義を、僕の「思想」だと思ってるのだが、もしかしたら、「宗教」と言ってもいいのだろうか。

という疑問にぶち当たって、自分の中での「宗教」を再定義する必要に駆られた。

あまりに複雑でワケわかんなくなってきた……



コメント from Mgmg Jelly
個人的には、「宗教はみんなの価値観を共有し、社会を円滑に回していくためのガイドライン」なんだと思いまする〜

しかしそうそう簡単にみんな同意してくれないので、死や苦難という逃れられない恐怖をダシにして(脅迫して)地獄やら天国やらの概念でもって特定の価値観を無理矢理強制するところがありまうす〜

ちなみに(ちょっとズレるけどw)日本の場合は元々農耕民族で共同作業が多く、価値観が大きく違うわけでもなく、村八分思想がきっちりしていたのでw、海外のような強烈な(排他的一神教など)の価値観の強制は必要でなく、ゆるゆるなのではないかと思いまする〜(╹◡╹)


コメント from Rita Cinquetti
それを宗教と呼ぶ呼ばないのは個々人の自由だと思います。ただ一般的に宗教と呼ぶ場合は、少なくとも他人と共有できるものである必要があるのかなと。
なので個人に於いて機能的に宗教と変わらない機能を提供する思想は、個人に於いてはやはり思想だと思うのです。

以前に自分なりに考え抜いた先の結論が、とある宗教とかなりの近似であることに気付き愕然としましたが、それを己のものとするのか、他人へ広めるのか、その差があれば個人としての思想足り得る、と思うようになりました。

コメント from 伊久新之助
はーなるほど
宗教ってのは個人用では不足なわけだ
あるいは僕が将来、もし自分の思想をまとめて他人にもわかりやすくなるように説明に努め、受け入れられたら、宗教と言うかもしれんわけだ

あと、宗教って一体系の中で全部説明できるイメージだけど、思想は部分的なイメージ。
そのへんについてはどう思われます?


コメント from Rita Cinquetti
個人で運用している場合は、そういった未完や矛盾も許容されますが、他者へ説明し理解・共感を得るには完全・無矛盾であるべきだと思います。
歴史上の哲学者が、その人生を掛けて辿り着いた境地を学び、ただそれを享受するなら、やはりそれは哲学でなく宗教であろうと思うのです。
そういう意味では受け取る側が許容する範囲でなら不完全で矛盾有りでも宗教足り得る、と。


コメント from 伊久新之助
うおおおおおなんか掴めたかもしれない!
思想はコードで、宗教って実行ファイルなんじゃね!?

宗教はパッケージングされ、素人にも扱えるけど、「なんでそんな考え方するの?まあ仕様だからいいや」って場合があり得る。そして仕様に何かあっても、宗教の中身自体は素人には手出ししにくい。
思想はナマのままの「考え方」だから、思想を構築できる人間は容易に内容を書きかえられるけど、それを実際に用いて人生を送るためには、考察と試行錯誤が必要。部分的網羅、あるいは限られた目的のみのためにしか使えない。

思想家はコードが美しい人で、宗教家はコンパイルのできる人なのだろう。そして宗教学者は、逆コンパイルのできる人。





以下は某記事の転載です。

「日本人の強固な宗教観は、他国に理解されにくい。なぜなら経典も儀式もなく、日本人自身が日本教徒であることを自覚していないから。外国人に納得してもらうことは不可能に近く、上げ足を取られてドツボにはまるだけ。」

靖国問題の新展開(1)自覚なき宗教戦争\ワイルドインベスターズ ブログ 「それを教えちゃマズイだろ!」
http://wildinvestors.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/1-f3ae.html




以下は2017.8.6のpostの転載です。

以前「日本教」を提案したが、その主要な教えの一つに「食い物を粗末に扱うな」がある。

だから、食える食い物を棄てたり、適切に扱わない者は「異教徒」として扱うべきだろうと考えている。
穏便に「あいつにはあいつの主張があるから干渉しない。ただし絶対に信用しない」とするのか、「異教徒は殺せ」とするのかは、人によるところだろう。





以下は2016.3.26のpostの転載です。

そもそも日本人が清貧を尊びすぎなんでは。
その顕著な表れに、江戸時代の改革群への評価がある。

江戸時代に武士が給与を米でもらってたのは、日本で最も価値のあるものが米だったからだけど、結局商人から物を買うには金が要るので、米を売って金に換えてた
で、何人か老中や将軍が経済改革やろうとしたけど、結局米の増産を意図する内容だったから、インフレになって武士はますます貧しくなって全然ダメだった。それなのに臆面もなく「三大改革」だなんて言っちゃって。対して経済刺激策を画策した田沼意次は「賄賂政治家」と散々。この評価の差は、社会に明確な「金蔑視」があることの証拠になっている。







以下は2016.3.26のpostの転載です。

しかも、「食い物は何より大事」というのは今も受け継がれている。

テレビとかで「賭け事でお金をスッた」というのは笑い話として取り上げられるし、視聴者も受け容れるけど、こと食い物に関しては許容範囲は極めて狭い。
少しでも食い物で遊んだ日には「この後スタッフがおいしくいただきました」の但し書きが必要になるし、床にぶちまけた日には悪人扱い。
二時間ドラマで殺人がある意味肯定されても、食べ物を粗末にすることは絶対に許されない。
そりゃ、世界一めしがうまい国になるわ。必然。


コメント from Rita Cinquetti
コピペネタで、歴史的に何をやっても怒らない日本ネタの落ちで怒らせる方法として「炊きたてのご飯土足で踏みつける」ってあったな

コメント from 伊久新之助
それは怒るわ。本気で。
逆に、殴られても特に怒りは起きないかもしれん。








以下は2014.1.19のpostの転載です。


たいへん面白かった。

「それでは私を含めて全員が自分とは何か定義する為にこの世界に存在しているのですか?

他の人たちどころか全ての物質や動植物もそうです。
物質世界と死後の世界に存在する全ての魂の目的はただ一つ、自分とは何かを知ることです。」
とか
「魂は直接的に他の誰かの役に立つ死に方を選ぶ事がよくあります。
例えば殺人がそうです。
命を奪う経験をしたい人と、そろそろ死のうと考えている魂が丁度いいタイミングで出会って殺人を成立させます。
人の意識レベルでこの出来事を見ると殺された人が被害者ですが、
魂のレベルではお互いの同意がなされているので、本当の意味では被害者はいません。」
とか
あたりの考え方がきわめて興味深い。考えの一つとして留め置こう。

俺が死後の世界について解説するよ
http://alfalfalfa.com/archives/6365279.html





以下は2014.7.7のpostの転載です。


イスラム教で学んだ。
「物事を成すには、次の4つが必要だ(神が用意する必要がある)。
物事を成すために必要な材料、それを組み立てる方法の知識、成そうとする意志、そして時間。
物事がならない場合、これらのうちどれかが欠けているか不十分だ。」




以下は2018.7.18のpostの転載です。


引用始め「にんげんは だれも まちがう あたりまえおもいます。これは わるいないです。でも まちがいとき ごめんなさい ゆうできない、これは わるいです。」引用終わり
https://twitter.com/salamnamaste01/status/1016512387434729473

ナマステさんマジ論語

「ナマステは気軽に使うと怒る方もいます」というツイートが話題に→ネパールやインドの方による解説「日本人のみなさん勘違いしないで」
https://togetter.com/li/1245749





以下は2016.2.26のpostの転載です。


神社に猫の死体運んじゃってよかったかな……
なにもしないよかマシだろ。


持論・未否定仮説について


以下は2014.1.27のpostの転載です。

我流の未否定仮説、
「理屈は感情より後に来る。」
の汎用性が高くて我ながらビビる。
この程度、哲学界隈ではきっと超当たり前なんだろうけど、勉強してないから誰の言葉で残ってるか全然知らない。知ってる方教えてください。


例:新聞Aが事象Bのことを否定的に書いた。
この例では、Aの記者が取材する段階や、編集段階か、つまり原稿を書く前で、Bのことを否定的に書こうという方針が決まっている。
Bが地球温暖化で、Aの記者が「地球温暖化とか嘘に決まってんだろ」と思っていたら、相当すごいことが無いかぎり記事は地球温暖化を否定する内容となる。データなんて見ようによってどうとでも解釈ができるし、それでも否定できなかったら最後に嫌味を言うだけでも記事全体は否定の向きを帯びる。

例:艦これの駆逐艦の中で、遠征時に最も燃料を少なく消費するのは睦月型である。
事実である(艦これの話でごめん)。この理屈は、ユーザCが駆逐艦の燃費をきちんと知りたいと思い立ち、実際に計算したからできた。このようなデータレベルでは、「知りたい」というプラスでもマイナスでもないニュートラルな感情が存在可能だ。この後、「遠征時にはできるだけ燃料消費の少ない艦娘を出撃させたい」という感情が生まれ、「睦月型が一番良い」という理屈が生まれる。順番は逆にはならない。

ごく稀な場合を除いて、この世のあらゆる理屈は感情よりも後に生成されているということを、日々確認しながら生きてゆきたい。






以下は2016.6.25のpostの転載です。


(自分メモ、未否定仮説)
きのこたけのこ戦争は、相手を打ち負かすというより、「自分はこっちが好きだぞ」って主張をしたり、相手をケチョンケチョンにけなしたりできるのが盛り上がる原因のように思う。
つまり、人は褒めたがっている。けなしたがっている。それによって快楽を得ている。すると、それを「金を出してもやりたい」と思う人はいるはずだよね。
「自由に褒めることができる場」を構築して、システム作りをして、うまーくルールを作れば、課金によって収益が得られるのでは?
と思ったけど、ブログやウェブサイトや、最近ではニコニコ動画の「広告」コーナーとか、全部それだったわ





以下は2017.3.4のpostの転載です。


僕の持論として、
人間に必要なことは衣食住の次に「他人に必要とされること」。
お金はそのように使われるべきだし、国家規模でそれが維持されるためには補助金等も必要と思う。
「ロボットが仕事を奪う」とよく言われるけども、これが深刻なのは、現在の世界では「他人に必要とされる尺度」が金の収入として表されてるからだ。しかし、その尺度は変えることができるはずだと思う。仕事なんて面倒なこと、ロボさんたちにあっては、どんどん奪っていって欲しいと思う。
僕らは、稲刈りをする時間の価値でトラクターを買い、余った時間で農協を作ったし、銀行の帳簿をめくる時間の価値で集中管理システムを整備し、投資信託を始めたんだから、仕事がロボに委託されれば、別に何かを始めるし、それによって「他人に必要とされよう」とするもんだよ。
その転換先が、歌を歌うことであったり、文章を書くことであったり、愚痴を言う相談窓口ボランティアであったり、ボーイスカウト的な地域教育の場であったりしたら、より人間というのは進歩するんじゃないの。

また、もし、この世の全ての仕事が、ロボットに置き換わったとしたら、当然、全ての人が「他人に必要とされる」ための方策を考えねばならぬ。誰からも必要とされない者は、生きていく幸せが無いと言って過言では無い。
ぼけて寝たきりになった老人も、知的障害で結婚できない者も、誰も彼も、必要とされる世間。それが「一億総活躍社会」といえるのだろう。
今では介護の仕事が必要で、従事者は国と利用者の金をもらって生活してるわけだけど、未来にはどうなるのだろうか。





以下は2018.1.16のpostの転載です。


「どうやら、『他人』はおしゃべりをすることが楽しいようだ」ということに、ようやく思い至った。
というのも、合コンに行って、それなりに話が盛り上がったのだが、盛り上がっただけで今後の飲み会の予定とかつきあう話とかが一切無かったからだ。

合コンは、異性と喋るためにセッティングされた場であった。そして、「合コンとは、異性と喋るためにセッティングされるものだ」ということは、世間の常識だった。
僕はそんなこと一切知らず、婚活パーティと同じノリで挑んだ。男女が喋る唯一の理由は、婚活と誤解していた。なぜなら喋ることに快楽を一切覚えぬ(あるいは、代替手段が無限にある)僕はおしゃべりをするためにわざわざ高い酒飲んだり変なつまみ食ったりする理由が想像できなかったからだ。

目的と手段が乖離してたから、僕のほしかった利益が得られるはずはない。





以下は2018.10.25のpostの転載です。


結局、人は、安定してる方が安心するんだなと。
「その後」が予想できる方が、安心するし、そういうものを求めるのだと思う。以下安定する中心を「軸」と表現する。

軸のぶれていない人はステキだ。特に、独自の軸を持っている者は魅力的。周囲の人は、明示された軸を見れば、その人が命題に対して「どんな行動を取るか」がわかるので、同意を求められそうなら近づけばいいし、ダメそうなら距離を置けばいい。利用しやすい。
「わかりやすい人」というのは軸が他人からもわかりやすい状態であることが多い。さらに、彼の軸が彼の哲学に裏打ちされたものならば、その軸はさらに強固になる。場合によっては、同じ軸を共有したいと行って周囲に人が集まることもあるだろう。

独自の軸を持たない人はたくさんいる(と思う。というのも、自分はそれを想像できないのだ。しかし、『おそらくいるであろう』ということはわかる)。
軸のない人は、どこかに軸を求める。安定したいから。また、他人を軸として仮定することもあるだろう。「誰かのために頑張る」というのが軸に当たる場合もある(と思う。以下略)。

独自の軸を持たない人は、独自の軸を持つ人に、自然と惹かれるのではないか。孤高の存在で、周囲に流されない、でも社会規範に反したことはしない。そんな「周囲から見て軸のありそうな人」は、結果的にモテる可能性がある。






以下は2017.1.21のpostの転載です。


自分の周りに、ママしかいなければ、自分の意見と言うものはママの意見のコピーになろう。しかし、自分の周りに、他の人間が多くいれば、ママ以外の意見も多く取り入れることになる。

「既存メディア不信」という。既存メディアが言うことを、市井の人々が信じなくなっているという意味のようだ。
昔は、ラジオやら新聞やらテレビやら、大きめの企業が駆動する、いわゆる既存メディアの意見のみが広まり、多くの人はこれを受け入れることになった。
現在は、インターネットによって情報の拡散が著しく速く広範になったことにより、既存メディア以外の意見も受け取りやすくなった。

ママ(『既存メディア』)、もう独り立ちさせても良いではないか。多くの人間は、ママを盲信する操り人形ではないのだよ。それとも、ママ以外には判断能力を持つものはいなく、意見など無視すべきものだと?







以下は2015.12.5のpostの転載です。

しばらく仮説として考えていた「予想通りのことが起こると、快感情が引き出される」これはほぼ否定される要素が無いので、一般化して問題なかろうと思う。
挨拶というものがこれだし、マンネリズムのメリットの一つでもある。ネタに適切に反応したときに楽しいのはこのため。逆に、予定が狂うと嫌な気持ちになる。もし自分に損を強いるような予定があって、それを避けられる状態になるとしても、先に言われていたことと異なる指示が出たり、しなければならなくなったりすると、逆に面倒に思える。

要するに、「他人に通じるようなネタを言おう」ということだ。ほもみ君。







以下は2017.3.25のpostの転載です。


(自分メモ・未否定仮説)名称を募集する。
「加算個の行動パターンのうち、どれかが『正解』で、それを選べば自分の思い通りの結果を得ることができるハズだ」という考え方を否定的な意味で定義したい。
アンケート方式にするので、どれかを選んでほしい。

これはエロゲーによくある思考(攻略可能ヒロインは上記の通りに振る舞うし、要望が多ければファンディスクなどで攻略可能になるヒロインも多い)だと思っていたのだが、他にも「自分の要求に応えない恋愛対象や、そのつきあっている相手、または世界自体が間違っていると考えるヤンデレ」や、「答えのある問題を解くのは得意だが、答えの無い問題は解くことができず、むしろ『そもそも答えが無いから問題が悪い』なんて言っちゃう人」などにも適用でき、一般化が可能であると考えるからだ。

そのうち考察を進めていくつもりだが、この仮称を「ヤンデレ的思考」とするか「エロゲー的思考」とするか迷っている。どっちかというと前者の方が、口に出しやすいし、すでに独り善がりな意味を含んでいるので良いと思うが、実際のヤンデレの行動原理に当てはまってるかどうか曖昧なのが不安なのよね。
他に良い案があれば採用したい。


コメント from Shiina Shunsuke
「加算個の行動パターンのうち、どれかが『正解』で、それを選べば自分の思い通りの結果を得ることができるハズだ」
ここよんでギルドレ思い出した。
http://kodansha-box.jp/topics/guiltychildren/index.html

> 強大な敵の強襲に、カイルは「あらゆる確率を自在に操る能力」を発現






以下は2014.3.27のpostの転載です。

仮定:
彼は、世の中を「自分を許してくれるモノ」と「自分を許してくれないモノ」とに分ける考え方をしている。

問い:
あなたは、「彼」か?




以下は2017.1.22のpostの転載です。


【ヤバイ】プロゲーマー・ウメハラ氏の講演内容でゲームに対する価値観が変わると話題に!
http://otakomu.jp/archives/495710.html

わかる。
「にわか」時代が一番楽しいというのはこれが理由と考える。

また、実践もしている。
何事も完璧を求めない。艦これでも必ず未取得艦を残すし、デレステもマニーで買う曲をわざと買ってないのはこのため。
あーでも、今日「あんずのうた」proフルコンしちゃったからなー......少しマニーで曲購入するか。




以下は2018.9.2に行った転載の転載です。

「物事に打ち込むには、沈黙が必要で、ため込む時間がいる。なのにSNSで毎晩、毎分のようにコメントしていたら、時間なんか作れない。好きでやっていると思っていたら、いつのまにかドラッグのようにコメントを強要されている。そのうえ素人なのに『こんなこと書いたら嫌われる、たたかれる』とか、まるで玄人のように自己規制をしている。『キジも鳴かずば撃たれまい』ということわざがあるが、『鳴きたい(書きたい)けど、撃たれ(たたかれ)たくない』という感じになっていて、結局いらいらして鳴いて(書いて)しまって、撃たれる。つまり、ネット上でたたかれて炎上する。こんな繰り返しの中でクリエーティビティーなんて生まれるわけがない。SNSにもいいところはあるが、若者は発信することに疲れ果て、発信して批判されることにも疲れている」

ジャズの異才・菊地成孔が語る表現、若者、SNS
https://style.nikkei.com/article/DGXLASFK26H2F_W4A820C1000000?channel=DF130120166059

よつばと感想(他人の)


以下は他人の感想の転載です。

いいかお前ら、よつばとファンでは常識だが
何故よつばとが素晴らしいかのエピソードをマジレスで教えてやる

それはよつばがトラと初めて出会う場面だ。
トラと出会う前、よつばは公園で拾ったボールを持っていた
それを仲良くなったトラにプレゼントをする。
だがトラは性格が無愛想だ。「きたねーボール…」と呟いただけだった

その後、時間は数巻ほど流れ
トラが車に積んである自転車を下ろしてよつばに見せる話が出てくる
その時、トラの車の中にはあの汚いボールが飾ってあるんだよ。
でもその事をトラは触れないしよつばも気づかない
周囲の人間もそのボールに触れないでトラの自転車自慢が続いていく。

普通のマンガなら気持ち悪い感動エピソードを展開したり
誰かがそのボールに気づいてトラの優しさに物思いにふけったりする演出をする。
でもよつばとではボールをただの風景の一部として扱う
そうすればテンプレ化したあのオタク文化から開放されると同時に、
トラの優しさを感じる事が出来るのはそのボールに気づいた読者だけという事になる

つまりよつばとの面白さってのは読者の観察力次第で変わるって事だ。
馬鹿にはこの面白さが分からない、それがよつばとだカスども

炎上と愚かな民衆について

以下は2018.10.20のpostの転載です。


この、「死ぬ」とか「殺す」とか言ったら謝罪しなきゃいけない的な風潮何なの?

松本を擁護する。
この件に関しても、言葉を字面通り読めない者がピーピー囀っているものと考える。松本は「死んだら負け」と言っている。「負け組は死ね」ではないし、「弱いヤツは死んだ方がマシ」だなんて一言も言っていない。
まず、囀る鳥たちは、「死人に口なし」という警句を覚えるべきだ。死んだら抗議の声をあげられなくなる。証拠を集める能力も無くなる。なんだったらあること無いこと言われるかもしれない。これに対抗できなくなる。「死んだら(条件)負け(結論)」なのだ。
逆に「生きてるだけで丸儲け」(明石家さんまの座右の銘)も参照されたい。

これらのインプットがなく、思慮の無い者が、真理に近い警句を放った者に石を投げるのは、まんま愚民と言わざるを得ない。

さんまの座右の銘「生きてるだけで丸儲け」に込められた深い思い
https://matome.naver.jp/odai/2140229254112632901

松本人志「死んだら負け」を撤回せず強気の姿勢→大炎上
https://news.nicovideo.jp/watch/nw4046787



以下は2014.3.27のpostの転載です。

よいこととも悪いこととも判断しようがない。
「できることは、行われる」の典型と考える。

権威づけられた言い方を挙げるならば、"If anything can go wrong, it will."(「失敗する可能性のあるものは、失敗する。」)の「マーフィーの法則」。


【前代未聞】京都高島屋 転売屋1人が並び屋50人を使い100体限定のSDロリーナを買い占め
https://matome.naver.jp/odai/2152246797865144201




以下は2018.1.14のpostの転載です。

一行しか読めない人用概要:「図の計算式が誤答なのは、定義されていない『×』を説明無しで使ったからじゃねえの?」

この画像はわりと有名になったので、「これの何がいけないのだろうか」「この教師の弁護をするとしたらどのように言えば良いか」と考えていて、思いついたことがあるので書いておく。なお、同記事内の「『32』と書いて正解とされていた」旨の話は確証もないし弁護も不可能なので言及しない。

数学の演算子というのは、定義されなければ使えない。
たとえば「×」とは ベクトルの外積 を計算するときに用いる演算子だ。当然、自然数の世界で使える演算子ではない。もし自然数の世界で、 しかも、乗算の演算子として 使うとしたら演算子の定義が必要だ。この演算子は前の数と後ろの数をどのように計算するのか。

見た感じでは、回答用紙には「×」は一切定義されていないし、おそらく授業でも定義されていない。定義されてない演算子を使って、得体の知れない数式を書き残した者に聞くべきは、「なにこれ?」で間違ってないし、回答者は直す機会が与えられたときに定義をきちんと書くべきである。

本人(回答者の母?)のツイートに
引用始め「予習は不正解対象ってことですね(^ω^)」引用終わり
とあるが、定義もしていない演算子を疑問無しに使う行為や、塾や参考書に書いてあるから別の場で使っていいと無配慮に考えることは、数学的に推奨できない。

教師がやるべきこととしては、めんどくさいから正答と見なすか、「×」の意味を定義させるか、どちらかだろう。教師は後者を選び、回答者と回答者の母はその真意を理解できなかった。教師はそれを理解させられなかった点で落ち度があるが、図の計算式についての誤答判定について落ち度はない。

とおある小学校の先生の最悪な教育が話題に!/netgeek
http://netgeek.biz/archives/52190





以下は2016.5.6のpostの転載です。

悪い意味で有名なこの話題だけど、僕は本文のうち一部分に共感を覚えた。

引用始め「ネットと実社会のキャラが微妙に違っていて、SNSではネットのキャラになれたのにリアルな知り合いの目上の方々とそこで繋がると色々崩壊するんだよね。リア充アピールは、友達にしてるわけで、上司や親戚にしてるわけじゃない」引用終わり

これは、僕がG+を偽名でやってる理由とほぼ同じだし、核心である。また、フェースブックをメーンSNSとして使わない理由でもある。
これは、当人の本音に間違いないのだ。ただ一点、「偽名でSNSを使えばいいじゃん」という点に、気づけていないだけなのだ。
それに言い方も非常に悪い。とかく、人類は他人の言を悪く広めるために、一部分だけ切り取るということをしがちだ。それなのに、

引用始め「こんなこと言える立場じゃないので
まぁいちユーザーの戯言だと思ってください」引用終わり

だなんて。不用意に過ぎる。
僕から見ると、単に「SNSに慣れてないお子様」という印象だ。


安心してください!4,5年はやってないぞ。おじさんえらい!

若者「お願い、おじさんおばさんはインスタやらないで」 http://blog.livedoor.jp/itsoku/archives/48532353.html



以下は2016.1.9のpostの転載です。


レベルが低すぎてあれなんだが、食いつく人も食いつく人だなあ、と。自民党以外が行う質問のときには、あれじゃね、カップめん1杯の値段当てクイズとか、漢字の読み方当てクイズとかやってれば、同様の手法で支持を得られるんじゃね?

国会中継をまともに見てない人が、言葉尻だけで悪口を言うケースが多すぎるので、このように程度の低い議論がまかり通る。本来は批判等するのなら、文脈を追った上で「どこがどういけないのか」ということを吟味してすべきだが、それがなされていない。
まずからして、新聞やTVがそれをしていないのだから、国民だって「あ、このレベルの悪口でも、言えば正当な批判ということになるんだ」と誤解するのは無理からぬことだ。このへんで、秩序醸成に影響する、メディアの質というものが強く問われるのである。

この質疑(部分的だが)では、「実質賃金が少ない」という話題で、「夫50万円の世帯で妻が働き始めた。妻の給与が25万円だとしたら、”安倍家”の収入は増える。このとき労働者の平均賃金は下がるわけだが、それを取り上げて『賃金が少ないぞ』という理屈はおかしい」という答弁を、安部首相がしている。
当たり前ながら安倍首相の月収は50万円じゃないし、妻の月収は25万円ではない。つまり喩え話だ。その中で、ことさらに「25万円」という部分を批判するのは、おせじにも「まともな批判」とは言えない。
じゃあ「25万円」という数字が、「12万円」と言ってたら満足なのかと。答弁の趣旨には全然関係ないけども、そう訂正したらみなさんの溜飲が下がるのだろうか?

そのへんを、なんか勘違いして、「俺でも政権批判できるぞ!」と意気込む人が多くなり、ひいては自民党政権に反対の人が増え、他党への投票数が増えるのであれば、自民党支持者以外にとってこの流れは得となるものだろう。
すなわち、「国民が指摘しやすい揚げ足取り」が、国民からは必要とされているわけで、実際の答弁の内容はどうでもいいと見られているに違いない。この姿勢が変わらない限りは、自民党以外は公約として「国会答弁で、わかりやすい揚げ足取りをします!」と掲げるべきであろう。そうすれば、現在よりもずっと、実効性のある公約と言うことで評価がなされるだろう。

安倍首相の「パートは月25万円稼げる」発言に批判殺到!ネット上で「計算してみろ」と怒りの声が相次ぐ!
http://johotankyu.com/?p=379

明日から使える言葉

以下は2015.1.28のpostの転載です。


業界人のあいさつが「おはようございます」の理由、
「彼らの中には昼起きる人もいれば夜起きる人もいる。だから『おはよう』に統一」ってのは前から聞いたことあったけど、

「日本語のあいさつの中で『おはようございます』だけ敬語だから」

という理由を聞いて「ほーーーっ!!!」と思った(堀江由衣は関係ない)。なるほど敬語なら下っ端も大御所にあいさつできるわけだ。「こんにちは」も「こんばんは」も、元の形はほぼ摩耗して使われてないもんね。

何にでも理由はあるものである。




以下は2014.10.19のpostの転載です。

「普通に」「死ね」「超」等、最近のはやりの話し言葉を、従来の意味や用法と同じテーブルで議論しようってのが無理なんだよな。
「日本語の乱れ」とよくいうが、それは単に時代に追い付けていない者のひがみだ。自転車に対して「自分で歩かないなんて横着だ、危ない」というようなものだろう。
自分の知らない言葉を理解しようとしたとき、その言葉を使っている者の気分や、その者にとっての価値観、対象の位置づけ等を把握しようと努力しないのは怠慢である。
とはいえ、そのような流行りの話し言葉を、通じない人に喋ったり、適切な場面を選ばなかったり、書き言葉で使ってしまう場合、話者の責任が大きい。



以下は2014.7.9のpostの転載です。

これ大好きwwww
「そういってあいつは~」の汎用性がすごい。
「飲酒運転?固いこと言うなよ」とか「助手席にシートベルト要らねえだろ」とかのセリフにボソッとつぶやくだけで効果あるはず。

斬新すぎる交通標語にネットユーザー騒然 「おもっくそ草生えたw」「何があった横浜」 - AOLニュース
http://news.aol.jp/2014/07/09/kotsuanzen/

漢字について

以下は2016.11.13のpostの転載です。

「十字路」は普通に理解するくせに「丁字路」はなぜか英字にしたがるよな
物を知らない連中が、「丁」という字をテイと読む機会にあまり触れないからこうなるんではなかろうか。ついでに、丁(テイ)とT(ティー)の発音が偶然似てたことによる。
完全に結果論だが、もともと「丁字路」を「チョウジロ」と読むように決めてれば、「○○町×丁目」という住所表記でよく用いる「丁」をきちんと想起することができたかもしれない。

「ヒルナンデス!」で道を教えてくれた男性が“丁(てい)字路”と発言 → 出演者が爆笑
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1902665.html




以下は2015.2.24のpostの転載です。

結局、僕が「新しい部首」を作るとしたら…と考えても、やはり電気関係、情報関係のものになるだろう。
今考えてるのは「アイオー偏」。縦書きでI/Oと書く。デジタルのものを指す時に使う。アイオー偏に網のつくりをひっつけて「インターネット」なんてね。





以下は2013.11.30のpostの転載です。

「はりつけ(貼付)」や「そうきゅう(早急)」、「せこう(施行)」「だいがえ(代替)」なんかは、混同や聞き間違えを防ぐためにわざと発音してる系なので間違えかと言うと微妙
逆に強力に批判するような者は、実際に仕事でその単語を使わないんだろうなあ/どちらかに偏った文化にいるんだなあ(『口腔』の例など)/働いたこと無いんだろうなあ、と思う。
口腔の「腔」の字は音読みが「こう」であって、そもそも「こうくう」って読みがあり得ないんだけど、そのへんはあれですよ、慣用読みだから。「うるさい」を「五月蠅い」って書くみたいなのと同じ。

僕は「重複」や「早急」「五十歩百歩」「施行」等は、周りの人が何と読んでいようと、頑として「ちょうふく」「さっきゅう」「ごじっぽひゃっぽ」「しこう」と読んでるけどね。

実は間違って読んでた漢字ベスト5
http://sonicch.com/archives/34508321.html

有用な示唆

以下は2016.4.26のpostの転載です。

「万全にしていれば、事故は起きないものである。もし事故が起こったら、それは加害者か被害者かその両方が原因なのである。」
「事故は起きるものであり、それを想定して物ごとを準備すべきである。非常に小さい確率でも、起きるものは起きるのだから、その事故があまりに甚大の場合取り返しがつかないので、事前に回避されるべきである。」



以下は2018.8.5のpostの転載です。

僕は「『自分は幸せだ』と思っている人が幸福だ」という考えなので、そういうことわざ的なのあるかなと思って調べてたら、変な通信販売が出てきたので参考にする。

このサイトのしくみはこうだ。
まず「『自分が幸せだ!』と思っている人よ、その『幸せ』は本当か?」と問いかける。
問いかけにもかかわらず「自分幸せっすよ」と言う人に対しては、「それは自分にウソをついてるサインです!」「あなたが受け入れないから拗ねてだだこねているのです。」と否定にかかる。
リンク先では、
実に怪しい方法が示される。しかし、その直後に体験談を掲げ、効果があるんだと信じ込ませる(ここまで読んだ者なら、ある程度のことは信じ切るだろう)。
価格は最後。ここまで説明をさせているのだから......という心理で押し切る手口。

結局、この方法で幸せになったとして、この商品が謳う宗教に入信しただけという評価になろう。自分で幸せを見つけることを捨て、その信仰に幸せを担保してもらうという、不確かな賭けをすることになる。
自分で自分を幸せにすることができ、あるいは自分で心のバランスを保つ精神力のある者は、最初のページで騙されない。
また、しっかりとした信仰がある者は、そっちの神様や、教義に、幸せを担保してもらってるので、このようなインターネット上だけの文章に騙されない。

学生の時にやらなかった?選択肢に「完全に」とか「一切ない」とか書いてあれば、その選択肢は疑ってかかれと(センター試験対策です)。
あれ、人生においても汎用性高いよ。「完全な幸せ」なんて、赤ん坊か白痴にしか訪れないよ。

今の「自分が幸せだ!」と思うことで不幸になる方法
https://ameblo.jp/gomezhanahana/entry-12166862241.html
→リンク先
ヒーリングセッションのご案内
https://ameblo.jp/gomezhanahana/entry-12146436630.html




以下は2014.3.27のpostの転載です。


「懲役30日」くる!?!?!!

薬物で時間の感覚を狂わせることで「懲役1000年」が実現できる可能性
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1792011.html



以下は2015.2.7のpostの転載です。

人口の少ない子供を無視して人口が多くて選挙権も持ってる糞ジジイどもを厚遇する
それが民主主義と言うものだ。

ところで>>188の
「188: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/07(土) 13:23:46.28 ID:QOOYK/cqd.net
俺足遅かったから鬼ごっこやると「◯◯にタッチするのは1人3回まで」とかいうハンデつけてもらってた
心遣いが辛かった

という書きこみに感銘。
やっぱ子供は自分で遊んでれば、みんなにとって一番楽しい遊び方を自分で見つけるんだよな、と。大人は本当に危ない時と、責任を取る時だけ出て行けばいい。

公園「ボール遊びするな!」親「外で遊びなさい!」子供「やることねぇし外でゲームしようぜ」世間「最近の子供は外でゲームか」
http://himasoku1123.blogspot.com/2015/02/blog-post_470.html



以下は2015.6.26のpostの転載です。


ほーーーーーーー!!
この手があったか!!
これは誰でも嫌になるwww

ゲームにハマった子供を飽きさせる方法が画期的だと話題に
http://hamusoku.com/archives/8861923.html



以下は2015.10.18のpostの転載です。

最初は原始的な回路だったのに(それでもすごいのに)、
ここまで進化するとは……!
今回は特に結果出力が見やすくてクール。

最初(偉大な先駆者)
【論理演算】マリオメーカーに「3+3=6」を計算させてみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27235148
同作者が出力を10進数にした
【論理演算】マリオメーカーに「3+3=6」を計算させてみた Part2
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27270694

後続
マリオメーカーで4,294,967,295+4,294,967,295を計算してみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27351491
最新
【34bit】マリオメーカー計算機で171億(略)+171億(略)の結果を表示してみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27383127




以下は2017.2.8のpostの転載です。

ニートが考えたにしてはわりと悪くない案
つまらん

以下引用「31 :以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/02/07(火) 10:16:07.276 ID:fY05BZcD0
現金ないのに家買う人に、ローン通すためだけに一時的にお金貸す仕事したい
33 :以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/02/07(火) 10:18:00.657 ID:fY05BZcD0
うお!そうか、自分で書いてて頭整理できた
司法書士に相談しよう 」

【!?】親の遺産(1億円以上)を持ったニートが考えたお金の使い道
http://otanew.jp/archives/8803643.html

リアルの活動について

以下は2014.11.30のpostの転載です。

橙色が、濃すぎたかな……?

綺麗にできた隊は、後で表彰する。







以下は2015.7.5のpostの転載です。

まあ、たまには寄付しないとね。いつもお世話になってるから。
僕は働いてて、給与ももらう立場なので、せめてと思い5,000円。
君らも、可能な人は寄付しとけよ。


ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズからのお願い
https://donate.wikimedia.org/?utm_medium=SocialMedia&utm_campaign=ThankYouPage&utm_source=GooglePlus



以下は2015.12.3のpostの転載です。


注文した。




以下は2016.3.29のpostの転載です。

客商売なのでね、
自分の仕事をしようとしても、客の相手をしてると時間が足りないわけですよ。
だから客のいない時間に残業する。

社畜にとって、最も楽しい時間は、日曜日とか残業の時間とかなんですよ。
なぜなら、自分の仕事ができるから。
社畜は常に仕事と時間に追われていて、求めるものは「責任を負わなくてよい状態」のみとなっている。
少しでも仕事を進めれば、叱られることは無い。
それは残業をする体力的負担を払ってでも社畜にとって嬉しいことだ。

リンク先で考えたことについて

以下は2017.5.4のpostの転載です。


超わかる。僕は「対応型」だ。投稿前に内容を精査するし、文体も常体だ。

筆者と同様、変な衝突が時々ある。よく「偉そうな言い方してる」と言われるし、基本的に相手さんは僕の文を読まない。
相手さんは「感想型」なのかもしれない。

また、長文を書くのが全然苦にならないのは、無関係ではなかろう。


【17000RT/240000PV】BBS世代とSNS世代の違いから考察する言語認識の根本的違い――ネットに向かって喋る人たち
https://hyogokurumi.hatenablog.com/entry/2017/04/29/204727


以下は2014.3.27のpostの転載です。

資料的価値がある事例だと思う。
俺は彼のことを他人の言として見ることはできないが、世間はおそらくこれを「頭がおかしい者のおかしい言動」としてとらえ、まともに読もうとしないのだろう。それが何よりも悔しい。
別に彼を擁護する気はないが、彼の発した言動や意見陳述の内容は本当に興味深い。彼は何かをしたくて罪を犯したんじゃなくて、やつあたりの矛先に、自分の近くの世界のものを選んだだけなので、彼の思考回路自体が狂っていると考えるのが普通だ。そんな者が、自分を分析して文章をわざわざ書いてくれるなんて希有な事例、無いぞ。


「黒子のバスケ脅迫事件」犯人「お前らが納めた税金でプリズンニート生活ざまぁwww」「黒バスクラスタの皆さん、実刑を一緒に喜んでくれてありがとう」
http://jin115.com/archives/52037945.html

【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告の『最終意見陳述』感想
https://togetter.com/li/714795





以下は2015.2.14のpostの転載です。

馬鹿はしばしばこのような論法で話をする。
しかし、ジャッジをする者も馬鹿なので、「議論で負けになる」ことは実は少ない。
特に9番や12番、29番、30番はよく聞く。


議論で「負け」が運命付けられている思考方法30パターン
http://gigazine.net/news/20150213-logical-fallacy-collection/




以下は2018.9.13のpostの転載です。

価値ある答えだ。このくらい答えられなくて、どんな「大人」か。

自分の考えを言語化するための、自分メモとして再共有。


「なんで働かないといけないんですか?」と聞いた学生への、とある経営者の回答。
https://blog.tinect.jp/?p=10598


以下は2013.11.16のpostの転載です。

この記事は本当に読む価値がある。

コメント欄、賛否両論あって大変に面白い。もはや芸術のようだ。厳しい社会風刺をまとった文学作品のようにさえ見える。
筆者に同調する者、放射脳、動物愛護の観点から筆者を気違い呼ばわりする者、外国人(欧米の方がよっぽどウサギ食うだろw)……入り乱れての華やかなコメント欄。

本文は、良いことか悪いことかはおいとくとしても、筆者の感じたこと、考えたことがたくさん書いてあって非常に興味深いものとなっている。
自分を振り返って、違う世界に触れている実感と言うモノを、読者に伝えている。画像があるのがさらに良い。わかりやすいからね。

うさぎはかわいい味がした。うさぎ狩りと解体してきたよ。
http://chiharuh.jp/?p=2940



以下は2015.5.1のpostの転載です。

いい話じゃん、と思ったが、2chのクズどもの反応が批判的で驚いた。色々言いたいことはあるが、あれだな、価値観の違いを感じた。

僕は下にいたら男子生徒と同じ行動をとりたいと思う。それが「今、自分に可能な最大のこと」だから。
それに、実はシーツを広げる行為は、女子生徒が実際に落ちてこなくても非常に効果的である。自殺したくなる時は、自分を「世界全部から否定されている」と思いがちであるところに注意すべき。男子生徒の行動はそれを真っ向から否定するものであり、女子生徒が自殺を思いとどまったのも実に道理と言える。



【画像】 ビルの屋上から飛び降りようとする女子大生をシーツで受け止めようとする学生たち
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1838272.html



以下は2015.12.19のpostの転載です。

前半は割とまともなこと(『論点』の話題のあたり)を言ってると思ったら、後半はただの「ネトウヨは悪」「民主主義が後退している」という政治思想の主張だった。文章中盤で意図的に話題をネジ曲げている。
特に「高学歴」がどうの、「鳩山由紀夫」がどうの、「民主主義」がどうのという、それまでに出てこなかった単語をぶっこんできたあたりで違和感の塊。最終的に政治思想を述べたいと思っても、それなら持っていきやすい「論点」が必要だろう。自分の文章として、上の方で「論点」って話をしてたぞ。それとも、話者が1人なら話がかみ合わなくてもいいのか。
特にわかりやすい詭弁の例と思うので、この文章を精査して、思想の押し付けやバカバカしい文章を無駄に読まないように学習したい。


ネットが進化、人が退化
https://ch.nicovideo.jp/BBBB/blomaga/ar931175




以下は2015.12.27のpostの転載です。

日本語で、「○○の良い所ってどこ?」とか「○○に意味はあるの?」とか問うと、
「良いところなんてねーよクズwwwww」・「意味ねーわ死ねwww」みたいに煽ってるニュアンスになるじゃん。自動的に反語を伴って解釈されるじゃん。あれどうにかならないの?

これについては、「発達障害」とか「自閉スペクトラム」とか言われる人は、この問題が限定的のように感じる。
言葉は意味通り受け取る方が自然だし、ありもしない裏の意図を深読みしてトンチンカンな受け答えをするのはおかしいと思う。
その意味では、むしろ定型発達者の方が、妄想をたくましく発揮する支離滅裂な異常者である。





以下は2015.12.29のpostの転載です。

なぜこのスレには、こんなにもバカしかいないのか
歴史は何度も何度も繰り返すんだから、過去に何があったかで、未来を予測し回避も可能だからに決まってんだろ
ロシアの条約の守らなさとか、中国の民度の低さとかは、歴史を学べばある程度納得できるもんだぞ。アメリカの、国民を報復戦争に駆り立てる過程とか、ドイツのナチ党のやり口とかは頻繁に引用される。

歴史の授業ってなんのためにあるの?
http://alfalfalfa.com/articles/140627.html




以下は2013.10.30のpostの転載です。


悪口言えない僕にとっても、このスレはけっこう興味深いんだよな。
僕は悪口言わないのが普通であって、逆に、悪口ってどうやって作るのかがわからない。このスレを読んで、他人がどのように悪口を出してしまうのか、またそれをどのように考え、克服していくのか、知ることが面白い。
何も知らないことを少しずつ知っていくことで、まっさらな雪原に足跡をつけていくような気分を味わえる。

誰も憎まない、悪口言わないことを目標にする人
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4047564.html

自身のアイデンティティについて

以下は2014.1.28のpostの転載です。

自分の思想群を「線形心理学」とでも呼ぼうかと思う。
「人の心は複雑」だけでは、僕の心は落ち着かない。
なんとか定義の方法を工夫して、四則演算できるところまで持っていきたい。
計算するためには、変数の定義や、正負の符号の定義などから構築しなきゃいけないからめんどうだけど、そこは趣味だから。
細かい定理や法則を積み重ねて、体系化したい。



以下は2014.3.11のpostの転載です。

「自分をわかるためには、
 自分が「何」であるかを考えるのではなく、
 自分が「何」を失えば、自分でなくなるかを考えるとよい。
 
 ところで、中原さん
 中原さんは「何」を失えば、中原さんではなくなりますか。」以上引用
自分が「何」を失えば、自分ではなくなるのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/06/post_1257.html


これ、良いな。

僕は何を失えば自分で無くなるか。
「素直に評価すること」「とりあえず気持ちだけでも楽しもうとすること」「歌うこと」「考えること」
こんなところかな。

歌って楽しんで素直に考える。
うん、僕だ。




以下は2012.6.24のpostの転載です。

「生命」ってのは、「流れ」に宿ると思っている。
 死んだ人間は、どこで死んだと判断されるか?「流れ」が無くなったという所だ。血液の「流れ」が無い。意識の「流れ」が無い。瞳孔が正常に反応しないのは、神経の「流れ」が無くなっているからだ。
僕はこの考えを得てから、テレポートについての知見が固まるに至った。「別の場所に、僕の体と同じ構造を原子レベルで再現しても、そこに『僕』は現れない」。そこには、流れが無いからだ。しかし、「流れ」をも再現するようなテレポートがあれば、生命の再現もできるだろう。
 また、「魂」はこの「流れ」自体である。「身体」は、言うならば「流れ」ている物、「流れ」る場所、である。それらは両立してこそ意味があり、片方が止まればもう片方も存在できなくなる。



以下は2015.11.5のpostの転載です。

「日常生活をする」ためには、複数の不自然なルールを頭にたたきこんでおく必要がある。
僕はこれを時々、忘れる。
対して、忘れない人もいるのだろうな、しかもその方が多数派なのだろうな、ということは、これまでの人生の経験の中で学んでいる。

例えば、「人前で歌ったり踊ったりしてはならぬ」とか。「一緒に歩いている者が横断歩道でない所を横断しようとしても、それを止めてはならぬ、さらには一緒に渡る必要がある」とか。
これらのルールは生きるために有用である、が必要ではない。ルールは地域によって異なり普遍性は無いし、必然性も無い。

僕らは、「日常生活」の中ではこれらを遵守しながら生きているわけであるが、はてさて、その姿は本当に「自分」だろうか。複数のルールの縛りの中で生活していて、そのルールの外のことを知らない「自分」は、完全だろうか?
「自分探しの旅」というのは、そういう意味で価値があるのではないか。いったん、ルールから離れてみて、世界がどのように見えるのかを試してみる。自分がどのように生活できるのか、やってみる。最終的には、「なぜ、ルールがあるのか」を自問自答する。

僕らは、若いうちに必ず、それを確認すべきではないのか。そうでないと、ルールの中で生活していくことしか知らないまま成長し、ルールの枠内で自分を構築していくことになる。特に問題は生じないかもしれないが、ルールの有用性を自分で見つけることが不可能になる。「自分で考える」という機会すら、無くしてしまうかもしれない。
自ら様々なものを定義し、その意義を考え、唯一性を考察し、代わりになるものが考えられるのなら、なぜそれに取って代わらないか理由を考え、世界の在り方を問う。自分の在り方を問う。

ルールを時々忘れるのは、実は悪いことばかりではない。「なぜ、してはいけないのだろう」「なぜ、しなければならないのだろう」と、確認する機会が増え、自然と自己への洞察が培われていくのだ。



以下は2017.4.30のpostの転載です。

一行しか読めない人のための要約:他人はどうか知らんけど、僕はいわゆる「夜景」などに価値を感じない。

夜景は美しいものである。
ライトアップされた桜とかタワーとかは美しいものである。
イルミネーションは美しいものである。

……といへり。
なんか、世間での常識というか、そういうアレで、「美しいものである」ということになってるわけだけども。
僕は全然そういう気持ちにならんので、複雑である。
さすがに、もう大人なので、他人に合わせて「あーそうだね綺麗だねー」とテキトー言っているが、本音は「価値なし」である。函館みたいに、地形が光によって浮き彫りになるのは、興味深いと思うけど、そういう要素の無い夜景に価値を感じない。

もちろん、好みの話なんだがな。
蛍は毎年見に行くし。花火は芸術的な意味あると思うし。
人間の、「火」に対する本能的な親しみの現れなんだろうな。僕はそれを感じないってだけで。



以下は2017.4.11のpostの転載です。

僕が死ぬときはホント
何でも無いようなどうでもいい事故で
死後にネタにされるようなバカみたいな死に方が良いな
岸壁で寝てたら落っこちて溺れて死ぬとか
軽自動車で50km/h制限の道を100km/hで走ってスリップして壁に激突して死ぬとか
死ぬときは絵にならないで死にたい。



以下は2017.1.24のpostの転載です。

「大学時代にやっておくべきこと」みたいな本を読んだことがある。
幸いにも、大学時代に。

「ひとりになること」というのが重要な項目の一つとして上げられていた。
集中して物事を考えるには、余計な刺激から意識を遠ざける必要がある。
そしてそのためには、スマホを置き、一人になれる場所を持つことだ。
そこで自分を見つめることで、考察の力と、孤独に耐え打ち勝つ力を得る。

僕は田村ゆかりのライブに大学3年時に行き、旅の道中で孤独を経験した。
そのときからかな。「旅は孤独を感じるためのものだ」というような意識を持つようになったのは。



以下は2014.4.7のpostの転載です。

僕は暗いところを好む。食事をするときも、本を読むときも、僕は暗い所の方が落ち着くのだ。

僕は職場で昼食をとる時、弁当を食うのだが、場所は自席でなく、奥の物置き兼打ち合わせ室みたいなところでとる。理由はいろいろあるが、簡単に暗くできるのもその一つだ。
物置きでもあるので、時々昼休みの時間に課の人間が出入りする。その際、電気が点いてないのに人間がいることに驚き、「暗いでしょう?」と声をかける。「ええ、暗いのが好きなので。」と僕は返す。彼(女)は電気を点けて自身の用事を済ませ、そのまま出て行く。僕はすかさず電気を消す。
何かの用事で彼(女)が再び物置きに入ってくると、また、「暗いでしょう?」。まるで、電気を点けておくことが良いことのように、恩着せがましく電気を点けておくことを主張し、僕が否定して、もう一往復ほどのやり取りののち、相手は釈然としないような感じで部屋を出て行く。

常識では、人間がいるところには電気が点いていないといけないという文脈があるようだ、どうやら。しかし、僕はその文脈にはそろそろうんざりしている。

見えない力学について

以下は2014.11.24のpostの転載です。

僕は、「可能なことは、行われる」という立場を採っている。

それがどんなに非道なことであれ、矛盾していることであれ、卑怯であれ、無配慮であろうとも、可能であるということは、行われる可能性が十分にあると考える。

また、行われる場合は、その理由として行為者の利益や、状況の限定が考慮される。
行われない場合は、そのいずれかを欠く。

マーフィーの法則も非常に興味深いけど、これはちょっと角度が異なる。
「人が、悪意を持って行うこと」に適用するつもりで作った言葉。「誰もそんなことしねえよwwwww」という考えに対抗するためでもある。





以下は2012.9.19のpostの転載です。

「力を持つものは勝ち、持たないものは負ける。」
僕はこれを全ての基礎としてさまざまな考察をしている。
なお、「勝つ」の定義は「自分が思った通り・それ以上の結果を得ること」、「負ける」はそれ以外。
また、「力」とは物理的な力以外にも、他人を動かす力や事を有利に運ぶ力も含める。

 例を挙げよう。
ある女Aが、男Bを痴漢の罪で告発した。Bは無実だが、いろいろあってAはBから示談金をせしめることができた。
この場合、Aは勝ち、Bは負けた。それはなぜか?
Aが持っている力は、とにかく先手を取った勢い(Bの思いがけないことをした)があること、痴漢の告発では女が有利であること、っていうか猥褻周りの法律の適用が圧倒的に女より男に多いこと、自分は被害者であると強弁することで得られる周囲の同情、などである。
Bが持っている力は、やっていないという事実だが、証拠は無く有力ではない。しかもAの持つ力は強大なため、対抗するにはもう少し材料が必要だ。
また、Aはもし「負け」ても、「間違えちゃったーごめんねテヘペロ」で済むが、Bは「勝っ」ても得るものは何もない。Aには戦いにリスクがない。Bには戦うメリットがない。これによって士気の差が大幅に開く。Aが勝つのは、そう考えれば必然である。Bが勝つためには、常日頃から法律の勉強をしておくとか、知り合いの弁護士を持っておくとかの準備が必要だったが、まあ公平に見て不利だ。

 世の中に「力」は無限の種類があるが、この相対的強さは場によって変化する。
たとえば、ここに1週間先のことが目に見えるようにわかる者Cがいたとして、同時に、この世にギャンブルの存在が無かったとする。すると、Cは、周りの人々の尊敬は受けるかもしれないが、おそらく現実よりは多くの富は得られないだろう。Cの力は非常に強力だが、力が及ぼす影響力の大きさは流動的である。
アイスホッケーの名手のDの名声は、北アメリカでは轟くかもしれないが、日本では微妙だろう。「アイスホッケーのうまさ」という「力」が、大きく扱われないからだ。

 だから、数多くの「力」を持っていると様々な場面で有利になることが多い。一種類しか無い「力」は、その「力」が通用しない場にあっては、意味をなさないからだ。アニメを知らない人々の前で、アニメの薀蓄を語っても、まったく有利に事が運ばないのと同じである。
人間には、取得可能な「力」の種類が多い。これが他の動物だと、イケメンである、ケンカが強い、そのくらいだろう。だから、僕は「動物」でなく「人間」であるために、多くの種類の「力」を求めるべきだと思う。
「日本語がわかる」だけではなく「英語もちょっとはわかる」、「サッカーの達人」だけではなく「野球もルールくらいならカンペキ」、など、自分の保有する「力」に多様性を持たせ、使う場面を有効に間違わなければ、きっと、男も女に勝てる。


はずだ。


いや、やっぱ無理かな......女は団結して既に営々と積み上げてるからな、女が有利な社会にするための、社会の常識、という「力」を。(例:「暴力は罪」として、男が持つ有効な力が一つ封印されてる)


なお、ここでは「善」「悪」については述べていない。述べるとしたら、「善」は他人を同調させ自分の味方を増やす「力」だ。

懐かしの遊びについて

以下は2014.6.1のpostの転載です。

ボール遊びの「ルンペン」ってみなさん知りませんかね?
学童保育で死ぬほどやったのですが。

田の字型のコートがあり、左下から反時計回りにルンペン、市民、騎士、王様の陣地。
使用ボールはゴム毬。基本的にテニスのように、自分の陣地に落ちたボールを、手で打ち返して他人の陣地に着地させます。
サーブはルンペンから騎士へ。あまりに騎士が取りづらいサーブをした場合、やり直します。
打ち返せなかったり、毬が自分の体(手のひら以外)に当たってしまったり、自分の打ち返した毬が自分の陣地や、誰の陣地でもない所に行ってしまったらアウト。ルンペン以外は、ルンペンへ。ルンペンがアウトになると、後ろで並んでいる人と交代です。
上位の者がルンペンに落ちることで空いた位は、下位の者が繰り上がりで成りあがります。王様がアウトになると、騎士が王様へ、市民が騎士へ、ルンペンが市民へ。
意外と王様はヒマで、つまらないのでわざとアウトになったりしてたなあ。原因は騎士のレシーブエース。ルンペンだけが交代してゆく……。

ルンペンは差別用語で、ドイツ語で「乞食」。

2019年3月30日土曜日

人類という種の生殖について

人間の技術の進歩と負担の軽減の方向を考えると、そろそろ「妊娠」「出産」の概念は古くなると思うわけよ
来世紀には試験管ベビーが多数派になると思うわけね
そうなった時に、どのようなことが起こるのか、考えたい。思想とか、男女の区別とか、子供の養育方法とか、人口調整とか、財産の分配とかそういうの

「家族」って「金銭的必要」「養育的必要」「情緒的必要」などについて相互扶助関係があるから成り立ってると思うんだよね
でも、今よく言われてる男女平等が進んだ場合、金銭的必要もなくなるし、情緒的必要は機能するかどうか怪しい。その上で、子を作ると養育するための人手がどうしても必要なので、そのためだけに家族を作るという感じになるかも。
そこで、「あっ、女の人も別に産まなくていいです、男と同様に働いてください」ってなったら、普通に「家族」って要らなくなるよね。
昔はいろいろなことにむちゃくちゃ人手が要ったから「イエ」が主流だったけど、今は「核家族」で済んでいるように、今後は「個人」なんだろうなと。
保育士さんはたくさん要りそうだが、子供の養育しなくていい分女性の人手は確保できるし、大丈夫かもな
モチ、生殖よりももっともっと早く介護は半自動化される。社会的責務が個人に押しつけられるのを防ぐんじゃ~

過去に比べて、圧倒的に便利になったのに、「働く」ってことが全然無くならないので、ベーシックインカムがうまくいったとしてもなお、「働く」こと自体は無くならんと思う。僕の考えが固いだけかもしれんけど
そのへんは時間が過ぎてみないとわからない部分が大きすぎる



コメントfrom Rita Cinquetti

コミックの銃夢LOに出てくるザレムという都市はそれやね。生殖機能は取り除いてあって、子はコンピュータによって遺伝子配合して産まれて養育親によって育てられる世界。


コメントfrom Ryogo Mochizuki

ボクは少数派かな。働くことを機械にやらせて家族と一緒に過ごす方に時間を使いたい。他人にベビーを作らせるより精子卵子バンクから選び女性の子宮に埋め込む方がまず主流になるかな。試験管は次々世代23世紀あたりか。

オリンピックの政治利用について

以下は2018.3.3のpostの転載です。 

「オリンピックの政治利用は問題だ」という論調が多くあるけど、僕は「オリンピックの政治利用」に容認の立場なんだよね
いくつか理由があるから説明する。

1 オリンピック自体が政治団体であること
オリンピックでは平和を謳っているわけだが、平和が大事だよという主張が政治主張であることは間違いなかろう(っていうか政治的じゃない主張って何だろう......禅問答かな?)。
また、フランスとギリシャの意向をつよく反映した組織だ。それはオリンピックの入場行進からもみえる。
最初にギリシャが入場するのは、古代オリンピックからの伝統だ、そこを政治主張と言うつもりはない。でも、例えばギリシャの隣国「マケドニア共和国」が「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として出場しているところは、多くの人が違和感を覚えることだろう。
マケドニアはユーゴからの独立時に、旧マケドニア帝国の領地だった地域を領土とすることから、国号を定めた。しかし、影響力の強いギリシャがこの国号にぶち切れて、国号を替えるよう継続的に抗議。国連加盟名も"The former Yugoslav Republic of Macedonia"となっている。オリンピックには国連加盟国以外も出場していることから、国連の下部組織ではなく独自に出場国を認定していることがわかるが、ギリシャの意向が反映されていることがわかる。

2 国を挙げての一大式典であること
オリンピックには金がかかる。ゆえに、開催国は多くの事業をこれ中心で進めなければならない。国家プロジェクトであるから、様々な要因が組み合わさって、イメージキャラクターや、スローガンなどが決められる。それらに政治主張を入れるなと言うのは、無理な相談だ。
また、開催国ではないところから、各国代表の大選手団が送られ注目される。国を代表として送られるというのは、単純に来るだけの意味が込められているのではない。国内の、多くの練習施設やコーチ、切磋琢磨する仲間、観客の応援、渡航を応援する人たち、広告を任すメーカー、報道機関、それらを背負って代表は来る。そんな各国の力や目が集まる場で、むしろ、主張をしないで、どこで主張するのか。世界でも有数の、政治主張の場ではないか。

3 すでに行われているということ
すでに......というか、毎回普通に行われてますよね。政治主張。
一番わかりやすいのが、モントリオール・モスクワ・ロサンゼルス各オリンピックのボイコット。それ以降は、オリンピックは商業に傾倒していきますが、オリンピックの開催が莫大なお金がかかることですので、それを担う以上、政治主張くらいしてもいいじゃんと思うのは僕だけだろうか。

”市民活動”について

以下は2016.4.12のpostの転載です。

「私だ!」の人たちはこういうところへは行かない。
問題解決の意識を持っている者はほとんどいなくて、「私参加してるわーマジ意識高いわー」と言って完結する自己満足を得たいために「私だ!」って言ってるだけだから。
香山リカは実に象徴的だ。

理由は「子供がうるさいから」だけ?市川市が住民の反対で保育園開園を断念...
https://mamari.jp/18671



以下は2015.12.21のpostの転載です。

「嫌だなあ」と思うことがある。
それを排除するために、僕らが取るべき手段はどんなものがありうるか、考えてみよう。そして、「実際に採ろう」と思う手段はどんなものか。

なんとなくだが、僕らは極端に「自力救済」をしない傾向にあるのではないか?と思った。
嫌なポスターがあったら、引き裂いて破り捨てるのではなく、インターネット上にアップロードして叩かせる。
嫌な本があったら、出版社に怒鳴りこむのではなく、法の規制を訴える。
気に入らない運動があったら、活動家をぶん殴ってやめさせるのではなく、既存の法や思想をよりどころにして批判論を展開する。

それらは、比較的、歓迎されるべきことだ。暴力に頼るよりもよっぽど文化的だから。しかし、あまりにそれに偏り過ぎると、僕らが本当に判断しなければならないことからも、避けるようになってしまうことにつながらないか?僕らの能力を、僕らで狭めてしまうことにつながらないか?
落書きされた紙幣を「受け取らない」という選択肢さえ、僕らには無いのか?

千円札に真っ赤なスタンプ『廃止させよう消費税』で苦言多数「これは酷い」「犯罪じゃないの?」
http://togetter.com/li/914069

アメリカ映画のタイトルについて

以下は2014.4.3のpostの転載です。
疑問。ぜひ意見をお寄せ願いたい。
 「なんでアメリカ映画のタイトルって短いの?」 

例えば日本語題「アナと雪の女王」(5語)は原題では「Frozen」(1語)。
「魔法にかけられて」(5語)は「Enchanted」(1語)。

逆に輸出した物でも、「千と千尋の神隠し」(5語)が「Spirited Away」(2語)。
「All you need is kill」(5語)が「Edge Of Tomorrow」(3語)。
しかも「All you need is kill」は英語だし、ビートルズの「All you need is love」のもじりだからそのまま使えばいいのに、これである。

いくつか仮説を考えたが、あまりに「なんとなく」なので、参考にならないかもしれない。
・日本語タイトルは単語ではかっこよくない。英語はかっこいい。←甚だ疑問
・日本語は歯切れのよさよりも語呂の良さを重視する。
・英語は馬鹿でもわかるように短いタイトルにしている。
・日本人は内容を説明してやった方が食い付きがいい。←昨今の文章っぽいラノベタイトルに繋がる?
・日本人はタイトルに主人公の名前が入ってると安心する。
・単に慣例。
・最近の流行。

あと、他の国の映画はどうなんだろうか。
言語学って面白いわ、マジで。



コメントfrom chang hee dan
識字率の低さと輸出のため

コメントfrom hisami tachibana
日本はタイトルで想像しやすいようにという感じで、アメリカはタイトルで分かりやすいようにという感じなんでしょうかしらね。

自分の言葉について

以下は2016.4.25のpostの転載です。

聞きかじった偉人の言葉を無節操にひけらかすのは三流に満たない。
時に及んで偉人の言葉を引用できるのは三流と言ってよい。
偉人の言葉を心に留め、口に出さずとも実践できて二流だ。
一流は自分で言葉を紡ぐ。



以下は2016.5.20のpostの転載です。

「車輪を作ったら、道を舗装せよ。」

言葉と定義について


以下は2012.6.24のpostの転載です。

 「生命」ってのは、「流れ」に宿ると思っている。
 死んだ人間は、どこで死んだと判断されるか?「流れ」が無くなったという所だ。血液の「流れ」が無い。意識の「流れ」が無い。瞳孔が正常に反応しないのは、神経の「流れ」が無くなっているからだ。
僕はこの考えを得てから、テレポートについての知見が固まるに至った。「別の場所に、僕の体と同じ構造を原子レベルで再現しても、そこに『僕』は現れない」。そこには、流れが無いからだ。しかし、「流れ」をも再現するようなテレポートがあれば、生命の再現もできるだろう。
 また、「魂」はこの「流れ」自体である。「身体」は、言うならば「流れ」ている物、「流れ」る場所、である。それらは両立してこそ意味があり、片方が止まればもう片方も存在できなくなる。





以下は2012.7.7のpostの転載です。

 自分の中の定義です。

 「賢明な人」は、他人を信じる。また、その余裕を持っている。他人が自分にすることは、自分のためにしてくれることであると認識し、基本的に受け入れる。他人も同じだと思っているので、してほしいことを頼むときには、強欲にならず、自然と節度は守られる。そして、自他ともに得になるように行動する。

 「愚かな人」は、他人を信じない。また、その余裕が無い。してほしいことを頼むときには、自分の主張と相手の立場を考慮せず、要求を押し付けるだけのことが多い。他人も同じだと思っているので、他人が自分にすることは、他人のためのことであると解釈し、基本的に拒否する。

 「賢明な人」は、「愚かな人」よりも弱い。暴力は振るわないし、要求を突きつけられたら従っちゃうし、殴られっぱなし。
しかし、「愚かな人」の作ることができる社会は、「賢明な人」のそれより小さい。「愚かな人」を縛るための厳重な法律と罰が必要だからだ。

 日本は、世界でも珍しい、「賢明な人」が多数派である国だった。だからこその識字率であったし、清潔さであった。
その状況は他国文化が流入することによってほつれ出し、おそらく、オウム真理教の諸事件と、3・11によって逆転した。「愚かな人」は、現在は、たぶん、多数派だ。

 あなたは、「賢明な人」ですか?





以下は2013.11.2のpostの転載です。

僕の未否定仮説を使うと……

問「なぜ『日常』ってなくならないとわからないの?」
答「それはね、<<愛とは愛着だ>>からだよ。どんなにクズな事前でも、それに慣れている自分がいるなら、その状態を愛してた自分が要るんだよ。事後の状態がどんなに良いモノでも、それが目新しいモノでる限りそこに愛は無い。きらめきが無くなる前にその状態に慣れて愛を感じなければ、事前を恋しくなることになるよ。」

とか

問「感情の無い知性は存在するか?」
答「知性をどのように定義するかによるが、人間レベルまで感情無しで進歩するのは不可能。<<理屈は感情よりも後に来る>>から、感情の無い生物は理屈を積み上げることができない。」

とかドヤ顔で言っちゃう恥ずかしい人になります

他の未否定仮説は「人は他人を殴りたい(『ネットは他人に同意されるために書きこむ場所』)を含む」「人は他人に認められたい」「生命は流れに宿る」等
まとめておくか




以下は2016.5.20のpostの転載です。

「ミーハー」が「にわか」に置き換わるのは、単純に言葉の流行り廃りの結果だと言う認識でよいか?




以下は2014.4.9のpostの転載です。

「美」というのは、力である。

もし目の前に美女Aと醜女Bがいたら、世の中の半分以上の男が、Aに比較的好意を持つ。
AとBとの頼みなら、Aの頼みの方を承諾する確率が高いことは、実験なしでほぼ自明である。
このことについて、<<BよりもAの方が大きな”力”を持っているから、事を成しやすい>>と考えることを提唱する。
すなわち、「力」を、「自分が『したい』と思ったことを成す能力」と位置付ける。

より大きな腕力を持つ者が、より重い物を持ち上げることができるのと同じように、
より大きな「美」を持つ者が、よく○○を××することができるのだ。


(ズヴィズダー5話の感想……か?これ)



以下は2014.5.14のpostの転載です。

Aなぜ、小学生は「ちんこ」とか「うんこ」とか言うだけで嬉しいのか?
Bなぜ、閉じたコミュニティ内では稚拙な専門用語が流行るのか?
Cなぜ、ラジオで自分の知っている曲が流れるのと嬉しいのか?
Dなぜ、オウム返しをすると、相手の心の安定が図れるのか?
Eなぜ、無視されると傷つくのか?
Fなぜ、金を出しただけで放っておく子育てには「愛が無い」と言われるのか?
Gなぜ、「好きだ」という発言は人を引き寄せ、「嫌いだ」という発言は時に人を遠ざけるのか?
Hなぜ、新規性が無いのに水戸黄門は人気なのか?

って辺りから、全てを網羅するべく筋道立てた結果が
「愛とは『共有』することである」
だったわけで。「共有」とは、時間の共有、情報の共有、感情の共有、等々。
共有すること自体が快感情を導き、それによって育まれるものが「愛」。




以下は2014.9.7のpostの転載です。

福祉の分野に「ストレングス」という言葉がある。
誰もが持っている、「社会で生きていく力」のことで、これはどんなに小さいことでも計上される。
たとえば「住む家がある(家族の持ち家)。」これは、多少の事では住む場所を失わずにすむことを意味する。
「『ありがとう』と言える。」特に周囲の人間に「応援しよう」という気を起させるために、これは重要。たおとえ仕事の事であっても、関わりたくない人には関わらないようにしようとするものだ。
「自分で歯磨き・洗顔ができる。」これは自分一人で身支度し、バイトを含め就労するのに必要なスキルである。さらに自分で起きられればなお良い。また、色々な場所を訪問するのに、清潔にしておいて損はない。

さて、「あなた」のストレングスは何?

利用者の力って何?/ケアマネジメント全般/困った時のQ&A
http://www.caresapo.jp/fukushi/qa/caremane/83dn3a000000c1nw.html





以下は2016.1.26のpostの転載です。

僕は余計な字のことを「冗字」と呼んでいたが、「衍字」という言い方があるのね。

引用始め「ありがちなのが、「がんんばる」のように、ミスタイプによって余計なひと文字が入るパターン。」引用終わり

「衍字」は読みづらいから廃れたんじゃないかなあ……。「衍」なんて、「敷衍」くらいでしか見たこと無い字だ。「敷衍」自体使われなくなってきてるし。または、「ゴジダツジ」の語感が良すぎて、”余分な”語句が省略されてしまった可能性もあるかw
「冗字」なら、まあたいてい誰でも読めるでしょ。今後とも、こちらを主に使っていきたい。

衍字。/勉強メモ。
http://kotover.blogspot.jp/2012/05/blog-post_29.html



以下は2018.1.14のpostの転載です。

一行しか読めない人用概要:「図の計算式が誤答なのは、定義されていない『×』を説明無しで使ったからじゃねえの?」

この画像はわりと有名になったので、「これの何がいけないのだろうか」「この教師の弁護をするとしたらどのように言えば良いか」と考えていて、思いついたことがあるので書いておく。なお、同記事内の「『32』と書いて正解とされていた」旨の話は確証もないし弁護も不可能なので言及しない。

数学の演算子というのは、定義されなければ使えない。
たとえば「×」とは ベクトルの外積 を計算するときに用いる演算子だ。当然、自然数の世界で使える演算子ではない。もし自然数の世界で、 しかも、乗算の演算子として 使うとしたら演算子の定義が必要だ。この演算子は前の数と後ろの数をどのように計算するのか。

見た感じでは、回答用紙には「×」は一切定義されていないし、おそらく授業でも定義されていない。定義されてない演算子を使って、得体の知れない数式を書き残した者に聞くべきは、「なにこれ?」で間違ってないし、回答者は直す機会が与えられたときに定義をきちんと書くべきである。

本人(回答者の母?)のツイートに
引用始め「予習は不正解対象ってことですね(^ω^)」引用終わり
とあるが、定義もしていない演算子を疑問無しに使う行為や、塾や参考書に書いてあるから別の場で使っていいと無配慮に考えることは、数学的に推奨できない。

教師がやるべきこととしては、めんどくさいから正答と見なすか、「×」の意味を定義させるか、どちらかだろう。教師は後者を選び、回答者と回答者の母はその真意を理解できなかった。教師はそれを理解させられなかった点で落ち度があるが、図の計算式についての誤答判定について落ち度はない。

とおある小学校の先生の最悪な教育が話題に!/netgeek
http://netgeek.biz/archives/52190




以下は2018.4.25のpostの転載です。

「大人」って何?
という問いはよく聞かれるものであるが、僕個人の仮説としての定義付けができたので紹介する。

「将来的にどうなるか予測して行動できる(する)のが『大人』」。
これでどや。

先を考えずに行動しちゃう人は「子供っぽい」だし、そう言う人をたしなめる時使うのは「大人になれよ」。
わくわくする気持ちを忘れずに、でも危ないことには注意する配慮を持った人は「子供の心を忘れない人」であり、将来収入が無くなるかもしれないのに親のすねばかりかじっている人は、やはり「子供」というべきだろう。

画像は「体は子供、頭脳は大人」
大人って……高校生やん……?




以下は2018.10.14のpostの転載です。

「エモい」について、行きつけのカフェにて......

伊久「『ヤバい』とか『超』とか、そういう新語こそ『流行語大賞』にふさわしいと思うんですよ」
店主「あ~、最近では『エモい』ってやつですね!?」
伊久「『エモい』......うーん、定義よく知らないから、使ったことない言葉なんですよ。『emotional』の形容詞化ですよね」
店主「ある人が言うには 『得も言われぬ』 の略らしいですよ」
伊久「!!!?!!!!マジですか!!?」
店主「(満足げ)」
伊久「確かに、『言葉にできない』という意味といい、語彙の消失というトレンドとの合致といい、これまでになかった語彙チョイスといい、完璧.....!」

流行について

以下は2017.4.9のpostの転載です。

未否定仮説、自分メモ。
流行り物が支持されやすいのって、「それ」が、ある一定の者に支持されているから、なのだと思う
市場に出回ってから10年ほど経っているのに、ほとんど誰にも見向きもされてない商品より、話題に上る商品の方を、人は手に取る。

彼氏・彼女がいる・いないと、モテる・モテないというのはそういう影響もあるのではないか。
「彼女がいる」男は、少なくとも、ある女に選ばれた男なのであって、ある意味品質保証が済んでいるのだと言える。

放射脳について

以下は2014.5.4のpostの転載です。
「嫌なら読むな」は、発言者の発言によって実際に傷つく人がいない場合に、視聴者同士が言える言葉なんじゃねえの?自己弁護の為の言い回しでは無い。
まあ、ついでに言えば、今回の騒ぎになってることについては、福島県民以外についても、何やかや言っても仕方ないと思うんだけどね。実際に被害を受ける人が編集部に文句を言うべき。

あと、特に美味しんぼを不適切作品と言うつもりは無いけど、「はだしのゲン」や「ゴーマニズム宣言」と同様、作者の主義主張を発信する「プロパガンダ作品」であることは確かなようだ。

美味しんぼ原作者“過激”予告「鼻血ごときで騒ぐ人は発狂するかも」。
http://www.narinari.com/Nd/20140525757.html

置閏法について

ユリウス暦とグレゴリオ暦とは、置閏法が異なってて、
前者は「年数が4で割り切れるときは閏年。」というだけだが
後者は「同上、ただし100で割り切れるときは閏年ではない。さらに、400で割り切れるときは翻って閏年とする。」であるから、
両者は400年間に3日分ずれることになる。
グレゴリオ暦の方が、比較的地球の公転に近いので、こちらを基準にすると、ユリウス暦を使ってるところの日付は(余計な閏日が挿入されてる分)少しずつ遅れることになる。
例えば、グレゴリオ暦で1月1日になったときに、ユリウス暦ではまだ12月31日になったばかりだったりするわけだ。
西洋人が「いい加減、ユリウス暦じゃやべえぞ」と気付いたのが16世紀、一番早い地域の改暦が1582年。10日分の日付が進められたとのことだ。

ずれは蓄積して、今では14日と言う大規模なずれが顕在している。現在において、ユリウス暦12月25日は、グレゴリオ暦1月7日にあたってるため、正教会の影響下にある文化では、クリスマスは(僕らがいつも使っているカレンダーに置いては)1月7日と言うわけだ。日本でも、旧正月が2月だったりするから、まあ同じようなもんね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6

雰囲気を味わう旅について

以下は2017.1.24のpostの転載です。 
雰囲気を味わいに行く
というと僕はやはりラーメン二郎のあの独特な、殺伐とした雰囲気だとか、
銀閣寺(慈照寺)の狭くも高い完成度の庭とか、
マウンテンとか、
コミケとか、
有家駅とか、
それ目的で旅してるよなあ、と再認識する。

コミケ前夜の豊洲アプレシオの独特の雰囲気ったら無いよ。
また、3時過ぎ、未明の時分から、吉野家で牛丼を食べ、豊洲からビッグサイトまで歩く人々の集団。思い出すだけで楽しさや焦燥感、寒さが感ぜられるようだ

地球と月の公転について

以下は2015.8.9のpostの転載です。
月が地球に対して30°運行するのに約2.272日かかるなら、360°(月の公転)にはその12倍の27.3日、390°(満月に至るまで)には13倍で29.5日だな。バッチリ計算が合う。

使命を負ったマスコミについて


以下は2014.8.24のpostの転載です。

バカにものを考えさせずに、いい気持ちに酔わせることで当選し、思い通りの政策を進めるのが、議会制民主主義の代議員の立候補者にとって有効な戦略なのだな。バカは数だけはいる。バカを大半味方につければ、思考する者が全員かかっても太刀打ちできない

以下は2014.8.24のpostの転載です。

教育が十分に行きわたっていないと、このようなことになる。

格差が貧困を呼び、貧困が教育の不均一さを呼び、教育の遅れが秩序を乱し、安心して暮らせないから経済を迷走させ、格差が広がる。
奇天烈な政治家候補は、まともな教育を受けた者にとっては単なる「うさんくさいだけの変人」であるが、教育を受けていない者にとっては「英雄」に映るかもしれない。
民主主義を導入し始めた(そして、大概は教育が行きとどいていない)国が、選挙権を持つ者の条件として「税を納めている者」という制限を設けているのは、上記のような考えがあるのではないか?変な候補者が、変な政策立案でもって教育を受けていない者をだまし、票だけを集めて凱歌をあげる。その結果どうなるかはわからないが、その国は大きく変わることだろう。




以下は2014.8.24のpostの転載です。
あと日本のマスコミは人の泣き顔を撮らなきゃいけないという使命感があるらしい。
広島の土砂災害の報から3日間が過ぎ、母と妹の安否が不明な若者を映しているシーンで顔をどんどんアップにするカメラ。お前が埋まれ。
以下は関係ないけどやっぱり泣かそうとする日本のテレビカメラ。

取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶/WEB RONZA
引用始「
ミヒル君のケースであからさまなのは、人道や倫理の意識の乏しさだ。ミヒル君に涙を出させるためには手段を選ばない。
」引用終
http://webronza.asahi.com/global/2014071400001.html


以下は2014.10.21のpostの転載です。
そりゃね、
公職選挙法や政治資金規正法?とかに違反して大臣やめるのはしょうがないし、それについて政治倫理審査会にかかるのは必要だと思うよ?辞任も仕方ないかもしれない。

でも、それってトップニュースで10分も20分もかけてやることか?
マスコミがゴミと言われるのは、ISISとかエボラとかの話よりも、
このようなワイドショーじみた小学生のいじめのようなものを長々とやってるからだ。
同じく野党も、法案の審議よりもこのようなつるしあげに何日も時間かけているから「だれに投票しても同じ」だなんて言われて政治不信につながるんだよ。

政治不信やテレビ批判は、蒙昧な国民がわかる程度のニュースしか報道せずに、いじめやつるしあげに躍起になりすぎていることから引き出されているということに、愚かなマスコミは気付かねばならない。
そして国民はくだらないニュースを流すテレビを否定し、自我を持って情報を摂取せねばならない。

法とその解釈について

以下は2012.4.2のpostの転載です。

4月2日生まれの人が、同じ学年の人の中で最も早く生まれていることの理由がこの法律。「年齢計算ニ関スル法律」。

「 本法は、以下の通り全3項(全54文字)という極めて簡素なものである。
 年齢は出生の日より之を起算す
 民法第143条の規定は年齢の計算に之を準用す
 明治6年第36号布告は之を廃止す 」

みじかっ!

全部引用したくなるくらい、特例の宝庫。でも、この民主党の議員の質問の通り、
 学校教育法では、第17条第1項において「保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、(略)これを小学校又は特別支援学校の小
学部に就学させる義務を負う。」と定めている。
これの「~満6歳に達した日の翌日以後における~」を「~満6歳に達した日以後における~」に換えればいいだけなんじゃ?という疑問も生まれるという……。政府(誰が答弁したかわからないけど)の答えはちゃんとした答えになってないよなあ。


 ところで、「なんで誕生日の0時に歳とらないのよ?」という疑問は当然生まれる。
これは2月29日生まれの人が4年に1回しか歳をとれないという説明によって一応は解決するけど、「でも、2月29日だけ特例にしとけばいいんじゃない?」という案も浮かぶ。
しかし僕は、やはり閏日対策だと思うのだ。もしも、万々万が一、2月29日を含む366日以外の日が閏日として成立したとしても、この法律は生きる。ていうか1年が365日じゃなくなっても大丈夫。
たとえば11月31日が誕生日となった人は、毎年11月30日午後12時に歳を取ることになる。3月32日が成立したとすれば、その誕生日を持つ人は毎年3月31日に歳をとる。
未来永劫保持されるのを前提として作る法律もあるということだな。この場合は本法のことじゃなくて、民法143条のことだけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E8%A8%88%E7%AE%97%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%B3%95%E5%BE%8B




以下は2014.11.13のpostの転載です。

なんとなく、これ(年齢計算ニ関スル法律)の解釈がわかってきた気がする。

普通、いろんな法的な権利や義務が発生するのは、何かが成立した翌日から。
例えば、11月12日の18時に会議があって、その場で決まったことを、11月12日の13時のできごとに適用はできない。だから普通、11月13日から適用となる。

しかし人間そのものは別だ。ある人が生まれた日の次の日から人権を適用…となったら、生まれたばかりの嬰児を殺しても「器物損壊」になってしまう。11月12日の9時に生まれた人間の、11月12日9時~24時の間は、「年齢が無い人間」になってしまう。だから、出生の日から数えねばならない。

同時に、「子女の満六才に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校(中略)に就学させる義務を負う。」という規定だが、これが「子女の満六歳に達した日の翌々日以後における…」だと4月1日は次の学年になる。
でも、「翌々日」にする理由が無い。4月1日生まれの者の権利を中心に考えてみる。無駄に教育を受ける権利を得る機会を1年遅くされるわけだから、理不尽だ。
「翌日」にする理由はある。4月1日生まれの者が権利を1年間満了するのは3月31日で、その翌日は新たな1年が始まる日だからだ。

「満了」という考え方は持っておく必要があるな。




以下は2015.10.17のpostの転載です。

1か月半前の記事ですが。
朝日新聞によると、税金は納めなくてよくて、滞納税を差し押さえる行政は悪なんだそうです。わーい朝日新聞は市民の味方だね。よし、朝日新聞を取ろう!

……ってなるかバカ!!!

引用始め「国民健康保険料約50万円を滞納していたが、差押えの予告はなかった。区役所を訪ねて「半分だけでも返してくれないと生活できない」と頼むと、「取引先の保証があれば検討する」と言われた。だが、滞納を知られれば取引を切られてしまう。
(中略)「ようこそ滞納いただきました」よくこう話す首長がいる。(略)野洲市の山仲善彰市長だ。「税金を払いたくても払えない人こそ、行政が手を差し伸べる人。滞納は貴重なSOSだ」。市長は真意をこう説明する。」引用終わり(実際の紙面から引用文をタイプしているので違いがあるかも)

(にっぽんの負担)税の現場から 突然の「差押」、預金がゼロ
http://www.asahi.com/articles/DA3S11939933.html



以下は2016.2.6のpostの転載です。

またぞろ変な主張まき散らして炎上商法で儲ける御用学者連れて来るんだから……

引用始め「長年にわたるケースワーカー歴を持ち、現在は公的扶助論の研究を行っている吉永純氏(花園大学教授)は、別府市の対応について「根拠に乏しいと言わざるを得ません」という。また、東京都内の生活保護の職場で働くベテラン・ケースワーカーの田川英信氏も、「別府市の動きは、正直、理解に苦しみます」という。」引用終わり

いやいやいやいや。
27条に照らしても60条に照らしても、もちろん62条に照らしても完全に適法だから。何が「根拠に乏しい」だよ。条文読み返せバカ野郎。

パチンコで生活保護を停止した別府市の「罪と罰」
http://diamond.jp/articles/-/85387



以下は2018.9.15のpostの転載です。

「入籍」について、「結婚」では新しく戸籍を作るから入籍って言わない!という説がまことしやかに語られています。

引用始め「という事で、多くの場合、入籍は結婚の意味を含まないのです。」引用終わり
みんな間違って使っている!「入籍」と「結婚」の意味の違い
https://hana-yume.net/howto/entered-in-the-family-register/

この語ってる人たちは、「改製原戸籍」ってのを見たことなかろうと存じます。だって、改製原戸籍には婚姻したときの記述に「入籍」って書いてあるんだもの。まあね、改製原戸籍は平成なかば以降はほとんど見る機会無いからね。若い人は見たことなくてもしかたないね。

ということで
引用始め「実はこれは昔の家制度で、結婚すると男性の戸籍(家)に女性が入ったという名残があるためです。」引用終わり
も正確ではありません(もしくはウソです)。

現行の戸籍では、「結婚」とか「出生」とかが電算データ化して謄本も読みやすくなり、「入籍」は書かれなくなっています。でも、「入籍」って言葉は慣用的に残ってるのです。定義された行政用語としては正しくないと言ってもいいかもしれないけど、間違いというのは言い過ぎですね。譬えて言うならば「キャストの2番目に書いてないから『二枚目』というのは間違い」みたいなものでしょう。


画像は八千代・佐倉司法書士による相続遺言相談( http://hanagasumi-souzoku.com/page-1826 )より拝借しました。当たり前ですが、例として創られた改製原戸籍ですから、実物ではありません。改製原戸籍を見たことがない人は、役所に行って改製前の、親が筆頭である戸籍でも取ってみましょう。「改製原戸籍(または除籍)の謄本」ですからね。



以下は2018.4.25のpostの転載です。

いや、決まりを守れよ。法令遵守って知ってる?
逆ギレをここまで堂々と書ける姿勢には、読んでるこっちが恥ずかしくなる。

「日本のスピード違反取り締まり」に異議あり! 実態に合わない制限速度にドライバーたちが怒り
https://nikkan-spa.jp/1460887