2019年3月30日土曜日

言葉と定義について


以下は2012.6.24のpostの転載です。

 「生命」ってのは、「流れ」に宿ると思っている。
 死んだ人間は、どこで死んだと判断されるか?「流れ」が無くなったという所だ。血液の「流れ」が無い。意識の「流れ」が無い。瞳孔が正常に反応しないのは、神経の「流れ」が無くなっているからだ。
僕はこの考えを得てから、テレポートについての知見が固まるに至った。「別の場所に、僕の体と同じ構造を原子レベルで再現しても、そこに『僕』は現れない」。そこには、流れが無いからだ。しかし、「流れ」をも再現するようなテレポートがあれば、生命の再現もできるだろう。
 また、「魂」はこの「流れ」自体である。「身体」は、言うならば「流れ」ている物、「流れ」る場所、である。それらは両立してこそ意味があり、片方が止まればもう片方も存在できなくなる。





以下は2012.7.7のpostの転載です。

 自分の中の定義です。

 「賢明な人」は、他人を信じる。また、その余裕を持っている。他人が自分にすることは、自分のためにしてくれることであると認識し、基本的に受け入れる。他人も同じだと思っているので、してほしいことを頼むときには、強欲にならず、自然と節度は守られる。そして、自他ともに得になるように行動する。

 「愚かな人」は、他人を信じない。また、その余裕が無い。してほしいことを頼むときには、自分の主張と相手の立場を考慮せず、要求を押し付けるだけのことが多い。他人も同じだと思っているので、他人が自分にすることは、他人のためのことであると解釈し、基本的に拒否する。

 「賢明な人」は、「愚かな人」よりも弱い。暴力は振るわないし、要求を突きつけられたら従っちゃうし、殴られっぱなし。
しかし、「愚かな人」の作ることができる社会は、「賢明な人」のそれより小さい。「愚かな人」を縛るための厳重な法律と罰が必要だからだ。

 日本は、世界でも珍しい、「賢明な人」が多数派である国だった。だからこその識字率であったし、清潔さであった。
その状況は他国文化が流入することによってほつれ出し、おそらく、オウム真理教の諸事件と、3・11によって逆転した。「愚かな人」は、現在は、たぶん、多数派だ。

 あなたは、「賢明な人」ですか?





以下は2013.11.2のpostの転載です。

僕の未否定仮説を使うと……

問「なぜ『日常』ってなくならないとわからないの?」
答「それはね、<<愛とは愛着だ>>からだよ。どんなにクズな事前でも、それに慣れている自分がいるなら、その状態を愛してた自分が要るんだよ。事後の状態がどんなに良いモノでも、それが目新しいモノでる限りそこに愛は無い。きらめきが無くなる前にその状態に慣れて愛を感じなければ、事前を恋しくなることになるよ。」

とか

問「感情の無い知性は存在するか?」
答「知性をどのように定義するかによるが、人間レベルまで感情無しで進歩するのは不可能。<<理屈は感情よりも後に来る>>から、感情の無い生物は理屈を積み上げることができない。」

とかドヤ顔で言っちゃう恥ずかしい人になります

他の未否定仮説は「人は他人を殴りたい(『ネットは他人に同意されるために書きこむ場所』)を含む」「人は他人に認められたい」「生命は流れに宿る」等
まとめておくか




以下は2016.5.20のpostの転載です。

「ミーハー」が「にわか」に置き換わるのは、単純に言葉の流行り廃りの結果だと言う認識でよいか?




以下は2014.4.9のpostの転載です。

「美」というのは、力である。

もし目の前に美女Aと醜女Bがいたら、世の中の半分以上の男が、Aに比較的好意を持つ。
AとBとの頼みなら、Aの頼みの方を承諾する確率が高いことは、実験なしでほぼ自明である。
このことについて、<<BよりもAの方が大きな”力”を持っているから、事を成しやすい>>と考えることを提唱する。
すなわち、「力」を、「自分が『したい』と思ったことを成す能力」と位置付ける。

より大きな腕力を持つ者が、より重い物を持ち上げることができるのと同じように、
より大きな「美」を持つ者が、よく○○を××することができるのだ。


(ズヴィズダー5話の感想……か?これ)



以下は2014.5.14のpostの転載です。

Aなぜ、小学生は「ちんこ」とか「うんこ」とか言うだけで嬉しいのか?
Bなぜ、閉じたコミュニティ内では稚拙な専門用語が流行るのか?
Cなぜ、ラジオで自分の知っている曲が流れるのと嬉しいのか?
Dなぜ、オウム返しをすると、相手の心の安定が図れるのか?
Eなぜ、無視されると傷つくのか?
Fなぜ、金を出しただけで放っておく子育てには「愛が無い」と言われるのか?
Gなぜ、「好きだ」という発言は人を引き寄せ、「嫌いだ」という発言は時に人を遠ざけるのか?
Hなぜ、新規性が無いのに水戸黄門は人気なのか?

って辺りから、全てを網羅するべく筋道立てた結果が
「愛とは『共有』することである」
だったわけで。「共有」とは、時間の共有、情報の共有、感情の共有、等々。
共有すること自体が快感情を導き、それによって育まれるものが「愛」。




以下は2014.9.7のpostの転載です。

福祉の分野に「ストレングス」という言葉がある。
誰もが持っている、「社会で生きていく力」のことで、これはどんなに小さいことでも計上される。
たとえば「住む家がある(家族の持ち家)。」これは、多少の事では住む場所を失わずにすむことを意味する。
「『ありがとう』と言える。」特に周囲の人間に「応援しよう」という気を起させるために、これは重要。たおとえ仕事の事であっても、関わりたくない人には関わらないようにしようとするものだ。
「自分で歯磨き・洗顔ができる。」これは自分一人で身支度し、バイトを含め就労するのに必要なスキルである。さらに自分で起きられればなお良い。また、色々な場所を訪問するのに、清潔にしておいて損はない。

さて、「あなた」のストレングスは何?

利用者の力って何?/ケアマネジメント全般/困った時のQ&A
http://www.caresapo.jp/fukushi/qa/caremane/83dn3a000000c1nw.html





以下は2016.1.26のpostの転載です。

僕は余計な字のことを「冗字」と呼んでいたが、「衍字」という言い方があるのね。

引用始め「ありがちなのが、「がんんばる」のように、ミスタイプによって余計なひと文字が入るパターン。」引用終わり

「衍字」は読みづらいから廃れたんじゃないかなあ……。「衍」なんて、「敷衍」くらいでしか見たこと無い字だ。「敷衍」自体使われなくなってきてるし。または、「ゴジダツジ」の語感が良すぎて、”余分な”語句が省略されてしまった可能性もあるかw
「冗字」なら、まあたいてい誰でも読めるでしょ。今後とも、こちらを主に使っていきたい。

衍字。/勉強メモ。
http://kotover.blogspot.jp/2012/05/blog-post_29.html



以下は2018.1.14のpostの転載です。

一行しか読めない人用概要:「図の計算式が誤答なのは、定義されていない『×』を説明無しで使ったからじゃねえの?」

この画像はわりと有名になったので、「これの何がいけないのだろうか」「この教師の弁護をするとしたらどのように言えば良いか」と考えていて、思いついたことがあるので書いておく。なお、同記事内の「『32』と書いて正解とされていた」旨の話は確証もないし弁護も不可能なので言及しない。

数学の演算子というのは、定義されなければ使えない。
たとえば「×」とは ベクトルの外積 を計算するときに用いる演算子だ。当然、自然数の世界で使える演算子ではない。もし自然数の世界で、 しかも、乗算の演算子として 使うとしたら演算子の定義が必要だ。この演算子は前の数と後ろの数をどのように計算するのか。

見た感じでは、回答用紙には「×」は一切定義されていないし、おそらく授業でも定義されていない。定義されてない演算子を使って、得体の知れない数式を書き残した者に聞くべきは、「なにこれ?」で間違ってないし、回答者は直す機会が与えられたときに定義をきちんと書くべきである。

本人(回答者の母?)のツイートに
引用始め「予習は不正解対象ってことですね(^ω^)」引用終わり
とあるが、定義もしていない演算子を疑問無しに使う行為や、塾や参考書に書いてあるから別の場で使っていいと無配慮に考えることは、数学的に推奨できない。

教師がやるべきこととしては、めんどくさいから正答と見なすか、「×」の意味を定義させるか、どちらかだろう。教師は後者を選び、回答者と回答者の母はその真意を理解できなかった。教師はそれを理解させられなかった点で落ち度があるが、図の計算式についての誤答判定について落ち度はない。

とおある小学校の先生の最悪な教育が話題に!/netgeek
http://netgeek.biz/archives/52190




以下は2018.4.25のpostの転載です。

「大人」って何?
という問いはよく聞かれるものであるが、僕個人の仮説としての定義付けができたので紹介する。

「将来的にどうなるか予測して行動できる(する)のが『大人』」。
これでどや。

先を考えずに行動しちゃう人は「子供っぽい」だし、そう言う人をたしなめる時使うのは「大人になれよ」。
わくわくする気持ちを忘れずに、でも危ないことには注意する配慮を持った人は「子供の心を忘れない人」であり、将来収入が無くなるかもしれないのに親のすねばかりかじっている人は、やはり「子供」というべきだろう。

画像は「体は子供、頭脳は大人」
大人って……高校生やん……?




以下は2018.10.14のpostの転載です。

「エモい」について、行きつけのカフェにて......

伊久「『ヤバい』とか『超』とか、そういう新語こそ『流行語大賞』にふさわしいと思うんですよ」
店主「あ~、最近では『エモい』ってやつですね!?」
伊久「『エモい』......うーん、定義よく知らないから、使ったことない言葉なんですよ。『emotional』の形容詞化ですよね」
店主「ある人が言うには 『得も言われぬ』 の略らしいですよ」
伊久「!!!?!!!!マジですか!!?」
店主「(満足げ)」
伊久「確かに、『言葉にできない』という意味といい、語彙の消失というトレンドとの合致といい、これまでになかった語彙チョイスといい、完璧.....!」

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