2019年3月31日日曜日

宗教観について


以下は2016.4.23のpostの転載です。


後輩「宗教なんて信じてる奴マジアホじゃないっすか~?」
ぼく「お前ん家、墓ある?」
後輩「あるっすよ○×寺(曹洞宗)に」
ぼく「お前もし死んだら死体は野ざらし?それとも葬式やる?」
後輩「たぶん葬式はやると思いますよ○×寺で」
ぼく「で、お前宗教はなに教だっけ?」
後輩「だから宗教とか興味無いって言ってるじゃないっすか~wwww」





以下は2013.9.14のpostの転載です。

「宗教」って何やねん?


「宗教」というのは、なぜ必要なのか、
という問いに、僕は
「人生における理不尽をなんとか受容するため。」
と答える。

ここで、僕がいくつか「未否定仮説」を立てているのは、
僕が生きていて疑問に思ったことについて、自分が納得できるまで突き詰めて考え、自分の言葉で(仮の)答えを出すためである。

僕は、僕個人用の宗教を作ってるのだろうか。
僕は、僕が立てた未否定仮説とそれに立脚する定義を、僕の「思想」だと思ってるのだが、もしかしたら、「宗教」と言ってもいいのだろうか。

という疑問にぶち当たって、自分の中での「宗教」を再定義する必要に駆られた。

あまりに複雑でワケわかんなくなってきた……



コメント from Mgmg Jelly
個人的には、「宗教はみんなの価値観を共有し、社会を円滑に回していくためのガイドライン」なんだと思いまする〜

しかしそうそう簡単にみんな同意してくれないので、死や苦難という逃れられない恐怖をダシにして(脅迫して)地獄やら天国やらの概念でもって特定の価値観を無理矢理強制するところがありまうす〜

ちなみに(ちょっとズレるけどw)日本の場合は元々農耕民族で共同作業が多く、価値観が大きく違うわけでもなく、村八分思想がきっちりしていたのでw、海外のような強烈な(排他的一神教など)の価値観の強制は必要でなく、ゆるゆるなのではないかと思いまする〜(╹◡╹)


コメント from Rita Cinquetti
それを宗教と呼ぶ呼ばないのは個々人の自由だと思います。ただ一般的に宗教と呼ぶ場合は、少なくとも他人と共有できるものである必要があるのかなと。
なので個人に於いて機能的に宗教と変わらない機能を提供する思想は、個人に於いてはやはり思想だと思うのです。

以前に自分なりに考え抜いた先の結論が、とある宗教とかなりの近似であることに気付き愕然としましたが、それを己のものとするのか、他人へ広めるのか、その差があれば個人としての思想足り得る、と思うようになりました。

コメント from 伊久新之助
はーなるほど
宗教ってのは個人用では不足なわけだ
あるいは僕が将来、もし自分の思想をまとめて他人にもわかりやすくなるように説明に努め、受け入れられたら、宗教と言うかもしれんわけだ

あと、宗教って一体系の中で全部説明できるイメージだけど、思想は部分的なイメージ。
そのへんについてはどう思われます?


コメント from Rita Cinquetti
個人で運用している場合は、そういった未完や矛盾も許容されますが、他者へ説明し理解・共感を得るには完全・無矛盾であるべきだと思います。
歴史上の哲学者が、その人生を掛けて辿り着いた境地を学び、ただそれを享受するなら、やはりそれは哲学でなく宗教であろうと思うのです。
そういう意味では受け取る側が許容する範囲でなら不完全で矛盾有りでも宗教足り得る、と。


コメント from 伊久新之助
うおおおおおなんか掴めたかもしれない!
思想はコードで、宗教って実行ファイルなんじゃね!?

宗教はパッケージングされ、素人にも扱えるけど、「なんでそんな考え方するの?まあ仕様だからいいや」って場合があり得る。そして仕様に何かあっても、宗教の中身自体は素人には手出ししにくい。
思想はナマのままの「考え方」だから、思想を構築できる人間は容易に内容を書きかえられるけど、それを実際に用いて人生を送るためには、考察と試行錯誤が必要。部分的網羅、あるいは限られた目的のみのためにしか使えない。

思想家はコードが美しい人で、宗教家はコンパイルのできる人なのだろう。そして宗教学者は、逆コンパイルのできる人。





以下は某記事の転載です。

「日本人の強固な宗教観は、他国に理解されにくい。なぜなら経典も儀式もなく、日本人自身が日本教徒であることを自覚していないから。外国人に納得してもらうことは不可能に近く、上げ足を取られてドツボにはまるだけ。」

靖国問題の新展開(1)自覚なき宗教戦争\ワイルドインベスターズ ブログ 「それを教えちゃマズイだろ!」
http://wildinvestors.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/1-f3ae.html




以下は2017.8.6のpostの転載です。

以前「日本教」を提案したが、その主要な教えの一つに「食い物を粗末に扱うな」がある。

だから、食える食い物を棄てたり、適切に扱わない者は「異教徒」として扱うべきだろうと考えている。
穏便に「あいつにはあいつの主張があるから干渉しない。ただし絶対に信用しない」とするのか、「異教徒は殺せ」とするのかは、人によるところだろう。





以下は2016.3.26のpostの転載です。

そもそも日本人が清貧を尊びすぎなんでは。
その顕著な表れに、江戸時代の改革群への評価がある。

江戸時代に武士が給与を米でもらってたのは、日本で最も価値のあるものが米だったからだけど、結局商人から物を買うには金が要るので、米を売って金に換えてた
で、何人か老中や将軍が経済改革やろうとしたけど、結局米の増産を意図する内容だったから、インフレになって武士はますます貧しくなって全然ダメだった。それなのに臆面もなく「三大改革」だなんて言っちゃって。対して経済刺激策を画策した田沼意次は「賄賂政治家」と散々。この評価の差は、社会に明確な「金蔑視」があることの証拠になっている。







以下は2016.3.26のpostの転載です。

しかも、「食い物は何より大事」というのは今も受け継がれている。

テレビとかで「賭け事でお金をスッた」というのは笑い話として取り上げられるし、視聴者も受け容れるけど、こと食い物に関しては許容範囲は極めて狭い。
少しでも食い物で遊んだ日には「この後スタッフがおいしくいただきました」の但し書きが必要になるし、床にぶちまけた日には悪人扱い。
二時間ドラマで殺人がある意味肯定されても、食べ物を粗末にすることは絶対に許されない。
そりゃ、世界一めしがうまい国になるわ。必然。


コメント from Rita Cinquetti
コピペネタで、歴史的に何をやっても怒らない日本ネタの落ちで怒らせる方法として「炊きたてのご飯土足で踏みつける」ってあったな

コメント from 伊久新之助
それは怒るわ。本気で。
逆に、殴られても特に怒りは起きないかもしれん。








以下は2014.1.19のpostの転載です。


たいへん面白かった。

「それでは私を含めて全員が自分とは何か定義する為にこの世界に存在しているのですか?

他の人たちどころか全ての物質や動植物もそうです。
物質世界と死後の世界に存在する全ての魂の目的はただ一つ、自分とは何かを知ることです。」
とか
「魂は直接的に他の誰かの役に立つ死に方を選ぶ事がよくあります。
例えば殺人がそうです。
命を奪う経験をしたい人と、そろそろ死のうと考えている魂が丁度いいタイミングで出会って殺人を成立させます。
人の意識レベルでこの出来事を見ると殺された人が被害者ですが、
魂のレベルではお互いの同意がなされているので、本当の意味では被害者はいません。」
とか
あたりの考え方がきわめて興味深い。考えの一つとして留め置こう。

俺が死後の世界について解説するよ
http://alfalfalfa.com/archives/6365279.html





以下は2014.7.7のpostの転載です。


イスラム教で学んだ。
「物事を成すには、次の4つが必要だ(神が用意する必要がある)。
物事を成すために必要な材料、それを組み立てる方法の知識、成そうとする意志、そして時間。
物事がならない場合、これらのうちどれかが欠けているか不十分だ。」




以下は2018.7.18のpostの転載です。


引用始め「にんげんは だれも まちがう あたりまえおもいます。これは わるいないです。でも まちがいとき ごめんなさい ゆうできない、これは わるいです。」引用終わり
https://twitter.com/salamnamaste01/status/1016512387434729473

ナマステさんマジ論語

「ナマステは気軽に使うと怒る方もいます」というツイートが話題に→ネパールやインドの方による解説「日本人のみなさん勘違いしないで」
https://togetter.com/li/1245749





以下は2016.2.26のpostの転載です。


神社に猫の死体運んじゃってよかったかな……
なにもしないよかマシだろ。


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