2019年3月16日土曜日

メンタルを維持するための思考について

以下は2013.12.7のpostの転載です。

読んだ。読むというより、自分の行動・習慣の再確認、といった感じだったけども。

なんつーか……本の中ですすめられてること、だいたい全部やってるので、全体的には「自分のやってることを肯定してもらった」というだけで新鮮味が無かった。でもたぶんストレスフルな生き方をしてる人にとっては画期的な本なんだろうなあ、と思った。

「深呼吸は吐く時に長く息をするのが大事」「歌を歌うと良い」あたりは、僕が合唱やボーイスカウト、アニソンオタ活動で培ったあたりであるし、
「他人を責めない」「他の価値観を認める」あたりは、オタクだったり変わりものだったりする自分を見つめなおしていた小4からの思考の積み重ねから習得しているし、
「あるがままを尊ぶ・感謝する」「高望みしすぎない(70点で良い)」あたりは、自分の出来が悪いのもある(大学学部時代の僕のモットー『最低より少し上を目指す』だもんw)けど、イスラム教徒との会話・議論で得たものでもある。

この感想に挙がっている

ほとんど読んでないんだけど…。タイトルに反して全然シンプルじゃない。巻末の折れない心をつくるポイントリストが見開き4頁、52項目て…。どこがシンプルやねん!笑 最初の方のこんな時はこの曲を聞けという章も目次見てやめた。変な本だ。

はごもっともwでもまあ、1つ1つはシンプルなことだし、エッセンスを抜きだそうと思えば簡単なので、シンプルと言って差支えなかろうと思う。立ち読み程度で合理的な方法を100%得られるとは考えないことだ。
そんなキバらずに、呼吸法や考え方から、1つずつ実践していっても良いと思うぜ。

折れない心をつくる シンプルな習慣/読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/b/453231688X


以下は2015.1.31のpostの転載です。

僕は本当にクズな奴で、仕事では本当に周囲に迷惑をかけてばかりである。
予定は忘れるし、その予定を書いたメモを無くすし、締め切りに間に合わないし、伝達は遅いし、物事の順番を間違える。

ただ、だからといって、全然仕事に寄与してないかと言うとそうではないので、仕事に行きたくなくなるわけではないし、自殺すると他人に余計に迷惑をかけるので、自殺もしない。
人権を自覚しているので、自分ができることは日々確認するようにしているし、その上で、現在の仕事を続けた方が確実に自分にとって得だと思うので、石にかじりついてでも今の仕事はやめない。

僕の座右の銘は "Nothing too late." やらないより、遅くなっても、やった方が良い。
あと、ちょっと前に知った「比較優位」( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%BC%83%E5%84%AA%E4%BD%8D )は本当に助けになった。仕事がダメな人も、「そこにいていい」という、確かな学説であるからだ。( 「仕事は早い人が全部やるのが能率的なのか
」/仕事理論 http://www.webusagi.com/?p=68

そんな感じで、なんとかかんとか、生きている。


以下は2017.11.21のpostの転載です。

僕は他人の考え方を理解することはできない。だから、「あいつはなぜ、あんな考え方するんだろう」と考えることがある。
この考え方を突き詰めると危険で、「僕が考えているのが正しいことで、他人は間違った考え方をしている」となる可能性を秘めている。

こうならぬように補正するために、「彼は別の世界線の僕だ」と考えるようにしている。
「他人の考えることはわからん」と割り切ってしまうから悪いのであって「自分がそのように考える」可能性を探り、他人の思考をパクる。
もちろん、完全な理解は不能だが、少し他人の気持ちになって考えることができるようになる。

以下は2018.9.17のpostの転載です。


 あるお店などについて、「自分の得られるものが無ければ行かない」を徹底しはじめている。

「無い」というのは正確に言うと、「非常に少ないために時間(・金銭・精神)コストを下回る」で一般化される。

某牛丼屋チェーンに行かない(金銭コスト過大)のはそのためだし、コミケに行かなくなった(時間コスト過大)のもそのため。

一時期頻繁に行ってた雀荘に、しばらく行っていない。……という例が3店舗ある。店員の質が悪い・客の質が悪い・店の質が悪いという理由で行かなくなったわけだが、どれも得られる快楽利益が精神コストを下回ったから。

毎週末、僕を店に戻そうとメールしてくる某雀荘C、客層から老害がいなくなったら考えてやるよ。



 以下は2014.4.14のpostの転載です。


 考えていることを言語化してくれている。

「-「なんかいいことないかなぁ」と部屋の中で思ってもまず見つからない。本にもネットにもない。

-楽しいこと、新しいことは体を動かして行動して「ああ、自分はこういうときこういう風に感じるんだ」って気づいて、初めて見つかる。

-だから閉塞感感じたら外に出かける。人と会う。何かを始める。考えても答えは出ない。

二十歳にもなれば、その人のすべてはもう顕れている。その自分の良いところを見つけるには、自分の直感を信じ(つまり自分を信じるということ)、自分が好きだと思える「正のエネルギー」が出る対象を大切にし、その対象を少しずつでも押し広げていく努力を徹底的にするべきだ。

そういう行動の中から生まれる他者との出会いから、新しい経験を積んでいけば、自然に社会の中に出て行くことができる。」
http://nemoi.tumblr.com/post/73207072622



 以下は2014.9.15のpostの転載です。

 死にたいのには色んなパターンがある。

自分が自分でいられなかったり、自分の立ち位置を理屈で説明できなかったりについて、

絶望している者もいる。


ただ単純に面倒くさいだけの人もいれば、責任から逃げたい人もいる。


個人的には、人は「このラインよりは上にいたい」という最終防衛ラインみたいなものを持ってて、

状況がそれを下回ったときに「ここにいたくない」と感じるのではないか?と考えてる。自分がそんな感じだから。

「最終防衛ライン」は人によって様々だし、経済方面のラインがあれば同居している者の人柄方面、使っている日用品方面にもラインがあるだろう、一言で言い表すの難しいな……

実はこの「最終防衛ライン」、かなり自由に動かせるのだけど、動かすという発想さえない人はけっこういる。

それでも、もがく。「最終防衛ライン」を下げて、自分の今置かれている状況に則した設定を探っている。

そんなとき、「死にたい」と言いながらも、自己の「最終防衛ライン」の構築を進めてるんではなかろうか。


 以下は2016.4.30のpostの転載です。


 人間は、個々に、「1日に喋らねばならない単語数」というのがある。

それは排泄と同じように、必要な物で、ノルマを著しく不履行となると、病気になる。

おしゃべりの相手がいなくなると独り言が増えるのはそのせい。

僕はそれを文字で書くことで発散してるので、めったにこれで悩まされることは無い。


以下は2016.8.11のpostの転載です。


 的外れすぎ。勝つときだけ楽しいのではないのだよ、「その雰囲気」を楽しみに行くのだ。

僕はパチンコとスロットを体験して、その本質が「騒音」にあると考えた。

パチンコに慣れていない者は、その「騒音」を良いものだとは捉えない。しかし、一旦その「騒音」を、「自分の居場所」と考えてしまうと、これは危ない。

うるさい場は、元々楽しいところなのだ。お祭も、宴会も、結局うるさいのが「非日常」で、楽しい。ギャンブルはそれをうまく演出して、うるささの中にプレーヤーを取り込むように工夫されている。



また、ギャンブルをする場は「非日常」の場。田舎には、他にうるさい場所が多くない。つまり、「非日常といえばギャンブル」と短絡してしまう。

日常で小難しい仕事や、家の中の細かい家事にわずらわされず、「非日常」を騒音の中に求める。細かい思考も騒音にかき消されて、いつのまにか目の前のギャンブルに没頭している。



こうなったらお終い!? 男が「ギャンブル依存症」になる3つの快感/ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2335143?ver=video_q

0 件のコメント:

コメントを投稿