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2019年4月1日月曜日

二次元力学について

以下は2015.12.25のpostの転載です。

そこでは、ものは「あるべき」ように在る。
努力は報われ、怠惰は罰せられる。
正義は固定され、すり合わせの必要が無い。
言葉や行動すべてに意味があり、必要でない人物はいない。
まさに理想郷。
それが「二次元」という世界だ。



以下は2015.8.28のpostの転載です。

二次元に限らずドラマや映画等が魅力的に見えるのって、「一作に大して『物語』が可算個しかない」からなんだよな。

全ての設定はほとんど唯一の「物語」に合わせて取捨選択されており、必要な設定だけが残り、ストーリーを邪魔する設定は排除されている。その上で展開される「物語」は、余計な描写が無いので受け入れられやすい。
対して現実では、「物語(と呼称するものがあったとして)」の本筋から外れた、邪魔な要素もバンバン起こる。それは「物語」が無数に絡み合っているからだ。ある一つの「物語」から見たら必要な設定・ストーリーでも、他の「物語」にとっては、進行を邪魔する、目の上のたんこぶのような、うっとうしい存在でしかないかもしれない。

そんな中で、二次元(あるいは、ドラマとか映画とかでもいいけど)の主人公というのは「物語」を抽出された、選ばれた者だ。この者に感情移入すると、作品内で起こることが全て自分の為に起こっていることなので、あらゆることを受け容れられるようになり、「素直な気持ちになれる」とか「感動した」とかいう爽快感・充足感を得られるようになる。

なお、わざわざ排除されている邪魔な要素を、「物語」を見ているときに突っ込むのは「野暮」とされる。例えば、「プリキュアが変身してる時に、なんで敵は攻撃しないんだよ」や「探偵に追い詰められて殺人を自供した容疑者に警察が手錠をかけたけど、こいつまだ逮捕状出てねえだろ」等というもの。




以下は2017.10.20のpostの転載です。

王様が「オラア貧乏人ども!100Gやるから魔物退治行ってこいや!!」ってその辺のスラム街の子どもに無茶ぶりして(口減らしのため)
放り出された子ども(『勇者』)が「こいつと戦え!」って向けられる相手は宗教が異なり言葉が通じず肌の色が少し違うだけの同じ人間で
放浪してる異教徒を殴って倒すと異教徒が持ってる金をカッパぐことができてお金が得られて
勇者が異教徒の街に行くと『魔王城』に近づけば近づくほど自分は周りにとっての異教徒になるわけで高い値段払わないとモノを売ってくれなかったり人種差別されるから殴られたりして「あ、自分が最初殴ってたのこういう異教徒だったのか」って気づいたりして
異教徒の親玉(『魔王』)は単に別の国の王様で衛兵とかいて倒すの大変でレベルがたくさん必要なんだけど、倒したら倒したで得るものと言えば城の財宝を強奪したり城下を略奪したりするくらいで
「俺、何しに来たんだっけ」って家に戻ると「ゆうしゃさますげー!」とか言われて近所の男の子が「俺もゆうしゃさまみたいにまおうたおしにいくー!」って言って絶望する

みたいな話読みたいです


ドイツ騎士団とリスアニア大公国らへんを想像しながら書いたよ
略奪?いいえ聖戦です。


魔王城に近づけば近づくほど、敵(異教徒)を倒したときの収入が多いのは、そんだけ魔王の国の財政が栄えてるからで、中央に住んでる人ほどお金持ち。
これで、「後半になると敵を倒したときの金が多くなる」を説明できる
あと「魔王倒しに行かせるのに粗末な装備しか渡さない理由」も説明できるし「魔王城の近くの方が敵が強い」こともわかる
なお、魔王を倒した勇者の物語は、本人にインタビューした上で歴史家がいい感じに脚色してカッコいい話に仕立て上げます。

さあ、君も王様と正義のために、魔王を倒しにいく旅に出てみないかね!?

魔法について

以下は2017.4.26のpostの転載です。

アニメで出てきている魔法の呪文を、僕が唱えても、何も起こらない。
これを、「アニメで描かれてるのは全部嘘だ」ととらえるか、「アニメで描かれてるのは自分の理解できてる範囲の外にある実在の話だ」ととらえるかによってアプローチが変わってくる
後者の場合、自分の住んでいる近所では起こらない事象でも、外国なら起こるかも知れないし、僕が魔法の呪文の唱え方を正確にやってないだけで、手順を踏めば魔法は発動するのかも知れない。
あるいは、僕らが「魔法だ」と思ってなくても、実は魔法は、世の中にありふれているのかも知れない。重力を魔法と定義したら?言語を魔法と定義したら?貨幣経済を魔法と定義したら?......ロマンだねえ。




以下は2016.1.23のpostの転載です。

2chの連中は、自分が中学で学んだ物理知識だけで事象が説明できると思ってるから「意味がわからん」と言う。
しかし、これは物理の話ではなく、魔法の話なのだから、特殊な説明が必要となるのは必然だ。
もし「魔法科高校の劣等生」の世界観における魔法を適切に定義しようとしたら、我々の知る法則ではない特殊な魔法法則を考え出す必要がある。しかし怠惰な者はそれを考えることなく、「こいつら意味わかんねえこと言ってる」と言って排除しようとする。
彼らは、自身が読んできた漫画の中で、主人公が使う魔法に敵が驚く姿を、覚えていないのだろう。そして今、彼らはその「敵」側に立って、漫画の登場人物に暴言を吐いている。
怠惰と忘却と排除とが、悪を生む。

まあ「放射線を描いて」は単純に全面的に間違いでいいと思うけどね。






以下は2014.9.11のpostの転載です。

未否定仮説(文章アイデア)
「勇者菩薩説」
ツッコミ等歓迎

「勇者と魔王」モノで、勇者がどんどん強くなるのは、勇者を応援する声の分だけ、勇者の魔力が強くなるから。
中ボス倒すと経験値がたくさんもらえるのは、その中ボスに虐げられてた民が勇者に憧れ、勇者を応援するから。
応援を集中させないと勇者を十分に強くできないから、世界で勇者は唯一でなければならない。
魔王を倒すと、ピークに達した勇者の名声が、人に忘れられることで衰えてゆき、世界に「異常に強い者」はいなくなる。

誰もいない森でレベル上げできることについては現在は説明できない。




以下は2014.10.25のpostの転載です。

いきなり妖精が出てきて、「なんでも願いをかなえるよ」って妄想は、どこの世でもあるもんだが、実際に何をどうしているのかはわからんのよね……

・物質的、一時的なお願い
例えば、「お金が百億円欲しい」とか、「渋谷の一等地に家が欲しい」とかってのだと、わりと実現が容易だと思う。モノを出して与えちゃえば終わりだから。

・スキーム的、維持的なお願い
しかし、「10年以内に日本の林業を復活させて維持したい」とか、「日本の食料自給率を80%まで上げたい」とかっていうのは、正直妖精さんの手には余るお願いなのではないか。

だとすれば、「なんでもかなえる」というのは無理かもしれない。いくつかの作品では、「人の生死だけはどうにもならない」と言う場合があるけど、これも、スキーム構築・維持のお願いだから難しいのではあるまいか。



以下は2014.6.8のpostの転載です。

僕が以前書いた文章の中に、「N/Mage」(ニュートン・パー・メイジ)という概念があるので、引用。


たとえば、今勝手に魔法による「押す力」の単位をMageとする。
また、「普通くらいの魔法力を持つ」魔法使いが全力で魔法的な押す力を発動させた場合、1Mageの力が出るとする。1Mageの魔法を受けた相手は、魔法によって1Mageの力で押されることになる。
1Mageを物理の単位に置き換えるとき、1Mage=1Nなら、たいしたことないが、1Mage=1000Nだとしたら、ものすごい勢いでぶっ飛ばされることになる。
このとき、N=kg・m/s/sなので、もし、「質量」の扱いが科学と魔法との間で異なれば、1Mageが1Nにも1000Nにもなるわけである(時間や長さは、目に見えやすいので、簡単のため固定としておく)。大質量の物体を、魔法でどうにかできるかという具合だ。
「魔法が存在する世界」を想像したとき、N/Mageが大きければ、小さな魔法でデカい魔獣とかが出てきて物理世界はメチャクチャになり、魔法使いが少数精鋭化する。逆なら、魔法使いがたくさんいないと中々大規模に物理に干渉する魔法が使えない世界になる。僕は後者の方が好きだ。

http://blog.livedoor.jp/aleksandor/archives/1345244.html

このときは「N/Mageが大きければ世界はめちゃくちゃになる」という認識だったけど、魔法を使うのがあまりに普通であるとすれば、魔獣や魔法的事象もたくさん起きるだろうし、防御機構も簡単に作られるだろう。
この場合、たとえばピラミッドを作ろうと思ったら、「石なんて魔法的質量が小さい物体なんて、持ち上げるの簡単~」とばかりに、魔法で容易にできちゃうのかもしれない。
そうすれば、科学なんて発達する間に、魔法による社会の仕組みがサッサとできてしまい、科学(特に化学)が迷信化することも考えうる。

コミュニケーションについて

以下は2014.5.26のpostの転載です。

飲みニケーションの仕組みがわかった気がする。

前提イ:日本は「本音と建前」の文化。仕事上は「建前」しか言ってはならぬ。
仮定ロ:昔(便宜上、『昔』と表現する)は「本音」を言う場が家くらいしかなかった。でも基本的に妻や子供に愚痴るのはカッコ悪いよね~。
仮定ハ:というわけで同僚等に愚痴る場が必要になる。しかし仕事のスペースではできない。ここで「飲み会」という一種のスイッチを設け、「ここでは本音言ってオッケー」とした。
仮説ニ:だから昔の人は「飲み会で部下と交流を深める」とかホザいちゃう。

仮定ホ:今(便宜上、『今』と表現する)は、「本音」を言う場は限定されない。仕事上でも言っちゃう場合があるが、多くの場合 SNS がその場として機能する。
仮定ヘ:というわけで、同僚等に愚痴らなくても全然問題ない。スイッチがそもそも無いし(あるいは、ネット→本音スイッチ、というパターンも生じうる)、仕事上の人間に本音を言う必要が無い。上司と飲み会、といわれると、建前的に考えて単に窮屈な場ととる。
仮説ト:だから今の人は飲み会に行かない。

んじゃねーの?
異論反論等よろしく
とっくに定説になってたり陳腐化してたりする議論だったらスマン






以下は2014.5.5のpostの転載です。

他人との付き合いの中において、準備ゼロで剥き出しの自分を出してしまうと、相手は面くらってしまう。
人は他者と共通するところを見つけ、その部分から相手との意志疎通を図って行く。

わかりやすいのが言語。日本人と日本人が出会ったとき、両者の意志疎通はおそらくすぐに叶うのだが、これが他言語話者とだとうまくいかない。
日本語という共通した道具・考え方を用いて、両者の理解は非常に助けられるだろう。

まるで歯車の歯をかみ合わせるがごとく、「この部分では共通してるよね」という、「いつでも立ち返れる地点」を探る。
そこを橋頭堡とし、相手のパーソナリティに踏み込んでゆく。

歯車のかみ合わせを面倒がり、「相手が合わせてくれない」と嘆くのはまことに自分勝手だ。
そのような者に本気で付き合ってくれる者など、親族くらいのものだろう。
もし、他人に、潜在的に「合う」要素があったとしても、かみ合わせる機会が無いのだから、互いにそれに気づくことができない。






以下は2013.11.30のpostの転載です。

妻「家事だって大変なのよ!あんたに出来るの!?」夫「」
http://sonicch.com/archives/27187456.html


>>53こいつ優勝

53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/05/19(日) 23:14:41.09 ID:rQIeKCU50

分かってあげられなくてごめん
これから少しずつ家事もしていくからさ
ほんと○○の事好きだから…抱きしめる
ごめん、気持ち悪いよね…抱きしめ解除
でもほんとに好きだから…抱きしめる
これで嫁は火事の事何も言わなくなった

女っていうのは自分が大変なんだよアピールをすぐにしたがる、だから相手のそれを肯定してほめたり、同情すれば割とそれでオッケー
で定期的に家事ありがとねとか言ってあげる




以下は2014.12.31のpostの転載です。

あ、そうそう
僕も言われるんだけど、身内が亡くなった人に対して、しばらく経ってから会うと、「どう?その後、落ち着いた?」とか聞くじゃん。

あれ、やめて。特に、亡くなった人がまだまだ社会活動が盛んだった場合は。

はっきり言って、現役バリバリの人がいきなり死んで、その親族が、そうそう1年足らずで落ち着くわけねーだろ!!っていう。
少なくとも僕は、来年8月の世界ジャンボリーが終わるまで、さらに、新しいうちの団の隊長が誕生するまでは「落ち着いた」とはいえない。数年かかるな。

あ、隠居してる人なら、亡くなっても、周囲が「落ち着く」のは比較的早いと思うよ。祖母が一昨年になくなったときは、すでに完全にボケて特別養護老人ホームに入ってたからね。





以下は2015.9.19のpostの転載です。

完全武装したキモオタがヤバすぎるwwwwwwwwwwww/アルファルファモザイク
http://alfalfalfa.com/articles/131010.html

この記事を見て、下のような装飾品についての記述を思い起こした。
僕は、ラブライバーをはじめとする、何かのファンがグッズを身につけるのには、彼らのコミュニティ内における彼らの地位を示すとともに、仲間に「僕は君たちの仲間ですよ」とアピールする効果があると考えている。
例えば僕は田村ゆかりのライブ会場限定Tシャツを着ることが多いが、これによって田村ゆかりファンから声をかけられたこともある。さらに、Tシャツの柄や記述によって、いつのライブに参加したかがわかるようになっているので、少なくともその時期より前からファンなのだという証拠にもなる。

Adornments of the Samburu in Northern Kenya: A Comprehensive List/ 21世紀COEプログラム
http://areainfo.asafas.kyoto-u.ac.jp/japan/areainfo/adornments.html
引用始め「本書の記述によって読者は、たとえば、1枚の絵葉書の中の女性が身につけている首飾りや耳飾りが、色あざやかで美しい装飾品であると同時に、その女性が未婚者であるか既婚者であるか、恋人がいるのかどうか、すでに割礼をしているのか、出産や流産の経験があるのか、などといった、さまざまな情報を提示していたということに気づくでしょう。さらによく見ると、首飾りに結び付けられている小さな貝殻や家畜の毛から、彼女が逆子を生んだ経験があることや、彼女が搾乳しているウシが最近あまりミルクを出さない、といったことまでわかったりします。」

価値基準について

以下は2014.2.25のpostの転載です。



人生の価値とは何か。

現在の僕は、どれだけその人が「幸せ」だったか、で人生の価値が決まると思っている。
横軸が時間で縦軸が幸福度であるグラフの積分が、その人の人生の価値だ。

しかもその「幸福度」とは、他人の評価でなく、その人自身による評価だ。
金持ちでも自分を不幸だという人がいる。
貧乏でも幸せだと思う人がいる。
どちらの立場をとりたいかと問われれば、僕は後者と答える。






以下は2015.7.2のpostの転載です。


「情報の消費者」という概念を発案した。未否定仮説と言うことで。自分メモ。
たぶんどっかの哲学者はとっくに考え付いているだろうから得意になるわけではないけど、面白いから考えを進めてみる。ブレスト。


「情報の消費者」は自分からは意味のある情報をほぼ生成しない。周囲の情報を摂取し、それに基づいて行動する。思考せず、周囲の情報をコピペすることで自分の意見を構築する。
また、常に情報を求める。「情報の消費者」は有益無益を問わず情報を欲する。また、その情報はセンセーショナルなものがより好まれる。
食の好き嫌いにも似て、「偏食」である者が多い。センセーショナルで刺激が多いものは「味が濃い」、スピリチュアル的、暴力的、それぞれに「味」があると考えてよく、それぞれ好む者はその味ばかり摂取する傾向がある。
「情報の消費者」がいれば当然「情報の生産者」が想定できる。これには主にテレビや新聞等マスコミが挙げられる。「情報の生産者」は、「情報の消費者」の嗜好をくみ取って、流行りの「味付け」や過剰な量を生産する。
物の生産とは異なる点に、情報を消費するのに対価が無いことだ。「情報の消費者」はしばしば無料で情報を得るが、この際払う対価と言えばせいぜい「余計な情報」くらいのものだ。すなわち、「情報を消費する」ということ自体が利益を生む仕組みになっている。

少し話が広がりすぎたか?面白いけど、少し精査しよう。










以下は2014.3.16のpostの転載です。

思うんだけど、

どんなにしょーもない言葉や物であっても、それをありがたがろうとして思い込めば、それによって幸せになったりするわけじゃん?「鰯の頭も信心から」ってさ。

だから、究極的には、ある作品の価値って言うのは、その作品自体だけでは成立せず、流通や宣伝コピーも含めて、総合的に得られるものなんじゃないかと思える。

だとすれば、「障害者が作った楽曲」という下敷きをもって楽曲が評価されたときには称賛されて、そうでなかったら凡作、というのは成り立つと思う

武者小路だか河内守だかわかんないけど、とりあえず嘘ついた人は悪いんだけどさ、ストーリーを含めて「これは傑作だ~」って言ってた人を責める必要なくない?
評論家の立ち位置は知らん

ゲーム企画

以下は2012.9.2のpostの転載です。

図は名古屋市営地下鉄の路線図を変形したもの。鶴舞線がずいぶんいびつになってしまったが、まあ許していただきたい。
黄色が1号線(東山線)、紫が2号線(名城線・名港線)、青が3号線(鶴舞線)、緑が4号線(名城線)、赤が6号線(桜通線)。なお、上飯田線についてはマップに入れるかどうか検討中である。

・やりたいゲーム
 ハドソンの「桃太郎電鉄」というシリーズをご存じだろうか。ざっくり言えば、双六のゲームシステムを基本として、買い物をしたりイベントでお金を増やしたりするゲームである。
「桃鉄」が好きな僕は、リアルの世界で桃鉄をやりたいと思うに至った。これには、言うまでもなくさまざまな問題が立ちはだかる。それらをクリアできる鉄道路線が必要だ。

・問題1、路線数と駅数
 桃鉄は、乗り換えを駆使しながら相手の貧乏神を避けたり、戦略的に移動したりというファクターが肝心である。そのためには、十分な広さのマップが必要だ。
ここでは、地方の私鉄とか、横浜市営地下鉄とか、ゆりかもめ、りんかい線などが脱落する。たとえば横浜市営地下鉄は、ブルーラインとグリーンラインの2路線しかなく、しかもグリーンラインはブルーラインに比べてかなり短い。せいぜいブルーライン上でのサイコロ勝負の追いかけっこしかできないと考えられる。

・問題2、1ターンに費やす時間
 桃鉄はターン制のゲームであり、ある程度のターン数が必要である。ならば、1ターンで使う時間は短ければ短いほど良い。
ここで、地方のJR路線や大規模私鉄が脱落する。マップが広いのはいいが、1日に数本しか電車が来ない駅に、どうやって停まれよう、どうやって移動しよう。また、隣り合う二駅間にかかる時間が10分あっても、たちまちターン数は足りなくなる。電車の本数も十分になければならぬ。桃鉄では1年は12ターンだが、1ターンに30分以上(サイコロで5や6が出たり、乗り換えをしていれば、普通にありうる)かけていては、1年分終わらずに1日が過ぎてしまうことさえ考えられる。桃鉄ファンとしては、最低でも、2年分、24ターンは欲しいところ。

・問題3、マップの簡便さと応用性
 十分な駅数と路線数があって電車の本数が多くても、それらが効果的に交差し、交差する個所では容易に乗り換えができることが望ましい。
ここで、東京の地下鉄が脱落する。メトロと都営地下鉄が複雑に交差する東京の地下鉄は、マップの作りにくさがこの上ないし、乗り換えにも時間がかかる。地下道で接続できる駅間もあったりして、運用が煩雑に過ぎる。

・問題4、運賃
 はっきり言って、こんなお遊びに、何千円も出していられない。数百円で済むのなら、それに越したことはないし。
名古屋市営地下鉄のドニチエコきっぷ(休日と毎月8日)、大阪市営地下鉄のエンジョイエコカード(休日額)、広島電鉄の電車一日乗車券、全て600円である。
東京の山手線を中心としたJR路線でこれをやると、10ターンで2千円を超えてしまう。それなら、普通に桃鉄買ってやりませんか?


 以上の問題をクリアするのが、名古屋市営地下鉄、大阪市営地下鉄、広島電鉄市内線。
この中で、どの路線を使うかだが、まず広島電鉄は別の路線が同じ区間を複数通っており、マップの作りようはあると思うが、採用しなかった。
また、僕は名古屋市営地下鉄の誇る環状線の名城線が好きなので、大阪ではなく名古屋市営地下鉄を採用した、ということだ。




以下は2017.1.28のpostの転載です。
思い付いた。
google playカードを商品に天鳳で「伊久杯争奪横好き麻雀選手権大会」を開こう。
賞金は1位4500円、2位3000円、3位1500円俺が全部供出する。
google playカードなら、暗証番号伝えるだけで賞金授与できるから簡単だし便利

って言ったら参加者いるかね?
予定日は2月5日14時。何回か打って、終了時に出てくるポイントを合計して、上から1位、2位、3位。





以下は2017.1.29のpostの転載です。
「天鳳」で麻雀をして、ポイントを多く得た者上位3人に賞金を出します。最低催行人数4人(伊久を除いて3人)。詳細は追い追い。

参加条件:催行日(2月5日)の14時から19時までの間、G+のイベント、ハングアウト、天鳳に同時に連続してアクセスできる者。麻雀のルールを知っている者。伊久とブロック・被ブロック関係に無い者。
参加するためには、2月4日24時までに当イベントにコメントで「参加希望意思」および「天鳳ユーザ名」(ログインしてるときに表示される名前)を書き込んでください。




以下は2017.2.5のpostの転載です。
+Keita Kagurazaka ,+hakkinen okabe ,+Tanaka Takeshi ,
お疲れ様でした。
楽しい会になって何より嬉しいです。

運営自体は、ちょっと構想を練ってたけれど、実現できたのは参加者が揃ったおかげです。
また機会があれば、よろしくお願いします!

韓国を嫌う理由について

以下は2016.2.2のpostの転載です。    特権階級在日韓国人・在日朝鮮人の仕切るこの国では、半島人を揶揄する言葉はヘイトスピーチですが、半島人が吐く差別発言は「個人的な見解」で許されます。

在日韓国人の岩城滉一がサッカー日本代表を中傷 「日本の選手見てると猿なのか、オランウータンなのか・・・」
http://gensen2ch.com/archives/14545192.html



以下は2017.2.5のpostの転載です。   

「一部の市民団体(圧力団体)や学者の私見によって具体化され、大衆世論によって成否が判断され、これを韓国メディアが後押しすることで、国民情緒法は(比喩的に言って)「制定」される。
近代法の前提を覆すもので、法の支配や時効や法の不遡及も時に無視され、国民情緒という揺らぎやすい世論に迎合して、いかなる裁定をも下すことができるとされる。
(中略)
韓国の行政・司法は世論の動きに流されやすく「憲法の上に『国民情緒法』がある」と指摘」

国民情緒法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%83%85%E7%B7%92%E6%B3%95



以下は2018.3.31のpostの転載です。   
韓国(等)で行われている「反日」がなぜ嫌われるかって、たんなるひとつの事例だけじゃなくて、こういう例がひっきりなしに出てくるからなんだよなあ。しかもこの事例は、無名の国民が自発的に「日本の国歌は嫌いだ!」って言ってるんじゃなくて、国を代表する大メディアがわざわざ発言したことで、韓国全体の程度が疑われる結果になっている。
他国を尊敬しない者に、どうして自国を尊敬できようか?

韓国テレビ局SBSが「君が代」を流したことにより批判殺到 「君が代は戦犯国歌だ、歌うのを強要された」
http://gogotsu.com/archives/37558

2019年3月31日日曜日

いじめについて

以下は2015.10.24のpostの転載です。

他人のPOSTのコメントで

「いじめられるべき奴」がいじめられている状態、

これを「いじめる奴」は欲している。そして、それを成立させるためにいじめているのだ。つまりいじめること自体は正確には目的ではない。


って書いたけど、思い付きにしてはわりとマシなこと言った気がするので精査して考察に加えよう。




以下は2016.6.2のpostの転載です。

舛添の動向についてのテレビ報道を見ていると、ただのいじめであること・みんながいじめを待ち望んでいるということが非常によく伝わってくる。




何かの問題があれば、もちろん、責任を負う者への追及は必要。しかし、その報道内容は子供と見紛う低俗さ加減、いや正義の御旗を振りかざして行っている分、それ未満と言える。

不正な(と考えられる)会計を指摘する場合では、無駄に地図のパネルを持ってきて「ここへの出張についての問題です」と示してくれる。行き先関係ないだろ。

釈明会見でも、内容をそっちのけで、「同じ言葉を連発していました」だと揶揄する。それも全然関係ないし、むしろ同じ言葉が出てくるのは正確を期す時に良くあることだ。

しまいには「心理学者」まで持ち出してきて、舛添の心理的内容まで暴こうとする。もはや政治とは何の関係も無い、つるしあげ一辺倒の報道で大変不快だ。




で、無論、これを望んでいるのがさらに下のレベルを行くバカな視聴者だ。都議会の傍聴席がいっぱいになったのがその表れであり、しかも「こんなに混むのは猪瀬元都知事の辞任以来」というから、どれだけクズどもがいじめ大好きかが知れるというもの。


こんな「大人」が、テレビが、「いじめはダメだよ」だなんて、口が裂けても言えるもんではないだろう?





以下は2016.6.2のpostの転載です。

引用始「このような例が、蓄積されず、研究対象とならず、伝播していかず、「素晴らしい先生」の一実践の終わってしまうのが、教育界の最大の欠点です。

 そこを何とかしたいと痛切に思った一日でした。

」引用終

これだな……

この「いじめ対策」はすごい!

http://www.moriguchiakira.com/entries/2009/05/20

「7 いじめの事実を認め、「泣くまで」反省した加害者は、通常、被害者に謝りたくなるのですが、
 すぐに謝らせることはしない。
 ※ すぐに謝ると加害者が「すっきり」するからです。

8 少なくとも一週間の時間を置いて、加害者に謝ることを許す。
 ※ 被害者にとって、加害者から謝ってもらうことは大きな癒しになるという報告を別の会合で聞きました。」






以下は2014.12.27のpostの転載です。

二行文盲のための要約:「人生におけるコミュニケーションは、しばしばTRPGで説明でき、僕らはそのプレーヤ(ときどきGMを兼務)だ。」


自前の「未否定仮説」だなんて言えないくらい、繰り返されてきた議論だけど、

日本人って(もしかしたら人間皆そうなのかもしれないが)、常に「その場における自分の役割」(ややこしいので以下『ロール』と称す)を演じているよね。そのロールに基づく発言が「建前」であって、それによらない、個人の考えが「本音」なのだろう。

たとえば、ある弁護士Aが、被告人Bの弁護をするとして、Bが無罪を主張していればAはBの弁護をせねばならぬ。いくらAが本音をどのように持っていようと、だ。




おそらく、高度に完成された社会ほど、本音と建前の使い分けは必要になる。全員本音を言ってそのとおり暮らしたら、ロールによって成り立っている社会システムは崩壊し、誰も働かないからだ。そして、本音を言う人が増えれば増えるほど、建前でコミュニケーションを取っている人間が割を食うことになる。

これによって本音を言うものが排除されるのではないか。




さて、そもそも「ロール」は誰によって決められるかというと、TRPGではGM(ゲームマスター)が決めることになる。GMは参加者が面白く遊べるように、ゲーム内のルールを曲げたり、パラメタをいじったり、イベントを起こしたりする。そしてGMが決めたルールを遵守する上で起こる事象は「面白いものである」という暗黙の了解がプレーヤの間で在る。




世の中、TRPGなんじゃないか。GMは持ち回りになる場合もあるし、PCを兼務しながらの場合もある。現実って、これなのではないか?

僕が頻繁に考察する、「いじめの発生時における条件」にも適用できそう。いじめは、その場における”GM”が、いじめイベントを発生させ、ある人にいじめられるロールを押し付けることから始まるんではないか?

いじめられるも者は、別の者にロールを押し付けることができない(それができるのはGMだけ)し、そのロールから逃れる手段といえば「ゲームから降りる」ことしかない。このことが、どのように考察できるかは、別の機会に考えよう。しかし、「ゲームから降りる」ことの恐怖は、いじめロールを続ける痛みよりも、おそらく、大きい。





以下は2017.2.25のpostの転載です。

NHK教育(いや......『Eテレ』か)の「いじめをノックアウト」という番組が、気が遠くなるくらい良い番組なので、マジで学校教育の道徳の時間に毎時間流して欲しいと思うくらいなんだけど。10分番組なので時間も適切だろ。




受信料に見合う価値のある番組なので、ぜひ他の人にも見て欲しいのです。年度で放送スケジュールが組まれてるけど、話題はほとんど1回完結だから問題ない。




いじめが起こるときのきっかけ、SNS上での意見の食い違い、いじめをし始めるときの気持ち、いじめられた者の選択肢の少なさ、止める方法、等等毎週土曜朝はこれを見ている。朝早い番組だから録画だけどね。しかも再放送だけどね

MCは、本放送時ではAKB48総監督だった高橋みなみ。ベストキャストである。誰がなんと言おうとこの番組の適役はこいつ以上いない。AKB内での軋轢も見てきているし、年齢が子供と近いから感覚も理解されやすい。SNSの問題点も把握しているし、AKBの総監督として「一歩引いた立場」でものを見るのに慣れている。

また、たかみなだから言えるさばさばした意見も素晴らしいし、無駄にしんみりすることも無い。10分番組だからそんな余計なこと言ってる時間は無いってのもある。他の、いじめをテーマにする番組で散見されるのは、「いじめられてるヒトってこんなにかわいそうなんだよ~ほらほらかわいそうでしょ」って言って番組のキャストが泣いたり訴えたりするやつなんだけど、そんなの何も、1ミリも伝わらんからね。いじめはバラエティじゃないんだわ。




「“いじめたい気持ち”ってどこから?」という話題で、たかみなが「楽(楽しい。また、楽な方向に向かおうとするといじめになりやすい)」という意見を出したのに感銘を受けた。「こいつがMCやってるならこの番組は価値がある番組だ」と思えた。

他では、「LINEのトラブルをさけるには?」という話しの中でたかみなの意見が冴えてた。AKBのファンだったことは無いが、たかみなは個人として尊敬に値する。




LINEのトラブルをさけるには?

http://www.nhk.or.jp/tokkatsu/ijimezero/shiryou/2016_008_01_shiryou.html

障害について

以下は某記事の転載です。

聴覚障害者の聞こえの可視化
http://news.livedoor.com/article/detail/8534242/




以下は某記事の転載です。

年収1000万の発達障害者が「ADHDのタスク管理術」について語ってく
http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/50407478.html





以下は2013.6.17のpostの転載です。

乙武入店拒否(笑)問題に「勇者と魔王」モティーフを見た。

「勇者と魔王」モティーフに、「魔王を倒した(あるいは、旅を制覇した)勇者は非常に強い」というものが頻出する。

「BOSS DEATH」というボカロ曲( 【PV】 Boss Death歌ってみたver.バルシェ【DLM】 )に

「山ごと切り裂く刃でリンゴを剥く 待っているのは何て歪んだ暮らし
海ごと焼きつくす炎で暖炉に火を灯す 力とはそういうものでしょうか」

と歌われているのがわかりやすい。



大きな力を持ってしまったら、それを捨てるか封印するまで現実の歪みはなくならない。まして、力の行使者が「勇者」であるときは特に。




乙武は今回、このような立場にあったろうと思われる。「五体不満足」という旅を紹介し、乙武は「勇者」となった。「仲間」や、彼を支える世界中の支援者とともに。

そして、その大きすぎる力をふるって「暖炉に火を灯した」。理由は「仲間を守るため」である。

ナマ身の生物にとって、大きすぎる「力」は、やはり邪魔でしかないのだと感じた。


乙武氏に名指し批判されたレストラン、毎日のように無言電話の被害受ける/痛いニュース
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1763977.html







以下は2014.7.30のpostの転載です。

うつ 薬 自殺企図 わたしの経験 https://www.youtube.com/watch?v=Dlywmq8GbeQ


まあ、良くある話で。
「自分がこのような経験をしたのだから、他の人についても全て一般化できる」

という暴論がはびこります。

この人については、過剰な投薬をされたことで、思考にロックがかかっていたのはほとんど本当なのだと思います。

しかし、「鬱」の一言で片づけられがちな症状は、人によって差があり、ケースによっては、やや多いかな?と思ってしまう量も必要となることもあります。

この人は、実は自分で気づいているのですが、「100%信じる」「100%疑う」ということしかできない状態です。自分が良い状態にある時に体験したことを元にしたら、たまたま「(多量投)薬は悪」という結論に至っただけです。

更に、この動画の大変罪深い点は、悪かったという結論が出てるのは「多量投薬」だけのはずなのに、勝手にそれを「薬全部が悪い」「精神医療全部が悪い」「政府が悪い」と話を過剰に拡大していっていることです。これを僕は「坊主-袈裟理論(坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い、という意味)」と呼んでいます。これによって勝手に「薬を飲まなければ良くなるのか!あの医師、自分を叱ってばっかいるし、きっとこの動画の人みたいに、薬飲むのやめた方が症状良くなるよなー」なんて最悪な勘違いを呼ぶ可能性があります。

薬を飲んでないのは治療を始める前の状態と同じであり、治療が必要だから医者に行ってるわけです。冷静に考えればわかるはずですが、心理的な病気ということもあり、この話を盲信してしまう人は一定の割合でいると考えます。

薬飲むのを勝手に止めて症状が重くなった例も人格が崩壊した例も知ってるので、できればそうした例が少なくなってほしいのです。




以下は2015.6.3のpostの転載です。


差別の話題が出たので。




僕にとっては、わりと差別の話題は身近。だってもうすぐですよ。「障害者差別解消法」が施行されるの。リンク先は、「日本障害フォーラム」という団体が作ったパンフレット(.pdfファイル)。全編読んでほしいけど、とりあえず11ページをご覧ください。




引用始「この法律が禁止する差別は?(以下適宜略)

(1)不当な差別的取り扱い

(2)合理的配慮を行わないこと」引用終




まとめると、「障害と関係ない事物のことで、不当に障害者の権利を取り上げてはならない」「障害者の権利を守るために、その対応をする人は、代替案が無い場合は無理のない範囲で合理的配慮を行わなければならない」ってこと。




このあたりにおける、「障害」を、「人種」や「性別」等に換えてもある程度は意味の通るものになると思う。




それを踏まえて、「差別」を次のように考える。

「誰かの特徴、特性、境遇を知った上で、

自分には認められている権利(ここには『人権』が主に問題になる)について、

彼の権利を無視、または意図的におとしめること。」




今書いた文章だから、突っ込みどころは大いにあると思うので、その辺は勘弁。ただ、ブラッシュアップして行きたいからどんどんツッコンでほしい。




以下は2016.9.27のpostの転載です。






発達障害の人と関わっている際に、”健常者”のことを「定型発達」と言う。

もちろん、発達障害、もしくは自閉スペクトラムのうち自閉傾向の強い人たちに対して差別的にならないよう用いる語なんだけども、その「定型」ってなんだよ、と思う。




自閉的な要素は誰しもが持ってるわけで、その発現の程度は連続的だ。




どの要素があれば「非定型」なのか?どこまでが「定型」なのか?「定型」って何だ?診察する医師にとって「自分と異なる」のを「非定型」と言ってるだけなのではないか?

医師はそんなに正義なのか?医師と異なったら障害なのか?それが「精神障害」なのか?だいたい、特徴づけられる発達障害のパタンはいくつかあるのだから、それこそ「定型」と名付けるべきなのではないか?




健常者の一方的な理屈には、時々閉口する。

宗教観について


以下は2016.4.23のpostの転載です。


後輩「宗教なんて信じてる奴マジアホじゃないっすか~?」
ぼく「お前ん家、墓ある?」
後輩「あるっすよ○×寺(曹洞宗)に」
ぼく「お前もし死んだら死体は野ざらし?それとも葬式やる?」
後輩「たぶん葬式はやると思いますよ○×寺で」
ぼく「で、お前宗教はなに教だっけ?」
後輩「だから宗教とか興味無いって言ってるじゃないっすか~wwww」





以下は2013.9.14のpostの転載です。

「宗教」って何やねん?


「宗教」というのは、なぜ必要なのか、
という問いに、僕は
「人生における理不尽をなんとか受容するため。」
と答える。

ここで、僕がいくつか「未否定仮説」を立てているのは、
僕が生きていて疑問に思ったことについて、自分が納得できるまで突き詰めて考え、自分の言葉で(仮の)答えを出すためである。

僕は、僕個人用の宗教を作ってるのだろうか。
僕は、僕が立てた未否定仮説とそれに立脚する定義を、僕の「思想」だと思ってるのだが、もしかしたら、「宗教」と言ってもいいのだろうか。

という疑問にぶち当たって、自分の中での「宗教」を再定義する必要に駆られた。

あまりに複雑でワケわかんなくなってきた……



コメント from Mgmg Jelly
個人的には、「宗教はみんなの価値観を共有し、社会を円滑に回していくためのガイドライン」なんだと思いまする〜

しかしそうそう簡単にみんな同意してくれないので、死や苦難という逃れられない恐怖をダシにして(脅迫して)地獄やら天国やらの概念でもって特定の価値観を無理矢理強制するところがありまうす〜

ちなみに(ちょっとズレるけどw)日本の場合は元々農耕民族で共同作業が多く、価値観が大きく違うわけでもなく、村八分思想がきっちりしていたのでw、海外のような強烈な(排他的一神教など)の価値観の強制は必要でなく、ゆるゆるなのではないかと思いまする〜(╹◡╹)


コメント from Rita Cinquetti
それを宗教と呼ぶ呼ばないのは個々人の自由だと思います。ただ一般的に宗教と呼ぶ場合は、少なくとも他人と共有できるものである必要があるのかなと。
なので個人に於いて機能的に宗教と変わらない機能を提供する思想は、個人に於いてはやはり思想だと思うのです。

以前に自分なりに考え抜いた先の結論が、とある宗教とかなりの近似であることに気付き愕然としましたが、それを己のものとするのか、他人へ広めるのか、その差があれば個人としての思想足り得る、と思うようになりました。

コメント from 伊久新之助
はーなるほど
宗教ってのは個人用では不足なわけだ
あるいは僕が将来、もし自分の思想をまとめて他人にもわかりやすくなるように説明に努め、受け入れられたら、宗教と言うかもしれんわけだ

あと、宗教って一体系の中で全部説明できるイメージだけど、思想は部分的なイメージ。
そのへんについてはどう思われます?


コメント from Rita Cinquetti
個人で運用している場合は、そういった未完や矛盾も許容されますが、他者へ説明し理解・共感を得るには完全・無矛盾であるべきだと思います。
歴史上の哲学者が、その人生を掛けて辿り着いた境地を学び、ただそれを享受するなら、やはりそれは哲学でなく宗教であろうと思うのです。
そういう意味では受け取る側が許容する範囲でなら不完全で矛盾有りでも宗教足り得る、と。


コメント from 伊久新之助
うおおおおおなんか掴めたかもしれない!
思想はコードで、宗教って実行ファイルなんじゃね!?

宗教はパッケージングされ、素人にも扱えるけど、「なんでそんな考え方するの?まあ仕様だからいいや」って場合があり得る。そして仕様に何かあっても、宗教の中身自体は素人には手出ししにくい。
思想はナマのままの「考え方」だから、思想を構築できる人間は容易に内容を書きかえられるけど、それを実際に用いて人生を送るためには、考察と試行錯誤が必要。部分的網羅、あるいは限られた目的のみのためにしか使えない。

思想家はコードが美しい人で、宗教家はコンパイルのできる人なのだろう。そして宗教学者は、逆コンパイルのできる人。





以下は某記事の転載です。

「日本人の強固な宗教観は、他国に理解されにくい。なぜなら経典も儀式もなく、日本人自身が日本教徒であることを自覚していないから。外国人に納得してもらうことは不可能に近く、上げ足を取られてドツボにはまるだけ。」

靖国問題の新展開(1)自覚なき宗教戦争\ワイルドインベスターズ ブログ 「それを教えちゃマズイだろ!」
http://wildinvestors.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/1-f3ae.html




以下は2017.8.6のpostの転載です。

以前「日本教」を提案したが、その主要な教えの一つに「食い物を粗末に扱うな」がある。

だから、食える食い物を棄てたり、適切に扱わない者は「異教徒」として扱うべきだろうと考えている。
穏便に「あいつにはあいつの主張があるから干渉しない。ただし絶対に信用しない」とするのか、「異教徒は殺せ」とするのかは、人によるところだろう。





以下は2016.3.26のpostの転載です。

そもそも日本人が清貧を尊びすぎなんでは。
その顕著な表れに、江戸時代の改革群への評価がある。

江戸時代に武士が給与を米でもらってたのは、日本で最も価値のあるものが米だったからだけど、結局商人から物を買うには金が要るので、米を売って金に換えてた
で、何人か老中や将軍が経済改革やろうとしたけど、結局米の増産を意図する内容だったから、インフレになって武士はますます貧しくなって全然ダメだった。それなのに臆面もなく「三大改革」だなんて言っちゃって。対して経済刺激策を画策した田沼意次は「賄賂政治家」と散々。この評価の差は、社会に明確な「金蔑視」があることの証拠になっている。







以下は2016.3.26のpostの転載です。

しかも、「食い物は何より大事」というのは今も受け継がれている。

テレビとかで「賭け事でお金をスッた」というのは笑い話として取り上げられるし、視聴者も受け容れるけど、こと食い物に関しては許容範囲は極めて狭い。
少しでも食い物で遊んだ日には「この後スタッフがおいしくいただきました」の但し書きが必要になるし、床にぶちまけた日には悪人扱い。
二時間ドラマで殺人がある意味肯定されても、食べ物を粗末にすることは絶対に許されない。
そりゃ、世界一めしがうまい国になるわ。必然。


コメント from Rita Cinquetti
コピペネタで、歴史的に何をやっても怒らない日本ネタの落ちで怒らせる方法として「炊きたてのご飯土足で踏みつける」ってあったな

コメント from 伊久新之助
それは怒るわ。本気で。
逆に、殴られても特に怒りは起きないかもしれん。








以下は2014.1.19のpostの転載です。


たいへん面白かった。

「それでは私を含めて全員が自分とは何か定義する為にこの世界に存在しているのですか?

他の人たちどころか全ての物質や動植物もそうです。
物質世界と死後の世界に存在する全ての魂の目的はただ一つ、自分とは何かを知ることです。」
とか
「魂は直接的に他の誰かの役に立つ死に方を選ぶ事がよくあります。
例えば殺人がそうです。
命を奪う経験をしたい人と、そろそろ死のうと考えている魂が丁度いいタイミングで出会って殺人を成立させます。
人の意識レベルでこの出来事を見ると殺された人が被害者ですが、
魂のレベルではお互いの同意がなされているので、本当の意味では被害者はいません。」
とか
あたりの考え方がきわめて興味深い。考えの一つとして留め置こう。

俺が死後の世界について解説するよ
http://alfalfalfa.com/archives/6365279.html





以下は2014.7.7のpostの転載です。


イスラム教で学んだ。
「物事を成すには、次の4つが必要だ(神が用意する必要がある)。
物事を成すために必要な材料、それを組み立てる方法の知識、成そうとする意志、そして時間。
物事がならない場合、これらのうちどれかが欠けているか不十分だ。」




以下は2018.7.18のpostの転載です。


引用始め「にんげんは だれも まちがう あたりまえおもいます。これは わるいないです。でも まちがいとき ごめんなさい ゆうできない、これは わるいです。」引用終わり
https://twitter.com/salamnamaste01/status/1016512387434729473

ナマステさんマジ論語

「ナマステは気軽に使うと怒る方もいます」というツイートが話題に→ネパールやインドの方による解説「日本人のみなさん勘違いしないで」
https://togetter.com/li/1245749





以下は2016.2.26のpostの転載です。


神社に猫の死体運んじゃってよかったかな……
なにもしないよかマシだろ。


持論・未否定仮説について


以下は2014.1.27のpostの転載です。

我流の未否定仮説、
「理屈は感情より後に来る。」
の汎用性が高くて我ながらビビる。
この程度、哲学界隈ではきっと超当たり前なんだろうけど、勉強してないから誰の言葉で残ってるか全然知らない。知ってる方教えてください。


例:新聞Aが事象Bのことを否定的に書いた。
この例では、Aの記者が取材する段階や、編集段階か、つまり原稿を書く前で、Bのことを否定的に書こうという方針が決まっている。
Bが地球温暖化で、Aの記者が「地球温暖化とか嘘に決まってんだろ」と思っていたら、相当すごいことが無いかぎり記事は地球温暖化を否定する内容となる。データなんて見ようによってどうとでも解釈ができるし、それでも否定できなかったら最後に嫌味を言うだけでも記事全体は否定の向きを帯びる。

例:艦これの駆逐艦の中で、遠征時に最も燃料を少なく消費するのは睦月型である。
事実である(艦これの話でごめん)。この理屈は、ユーザCが駆逐艦の燃費をきちんと知りたいと思い立ち、実際に計算したからできた。このようなデータレベルでは、「知りたい」というプラスでもマイナスでもないニュートラルな感情が存在可能だ。この後、「遠征時にはできるだけ燃料消費の少ない艦娘を出撃させたい」という感情が生まれ、「睦月型が一番良い」という理屈が生まれる。順番は逆にはならない。

ごく稀な場合を除いて、この世のあらゆる理屈は感情よりも後に生成されているということを、日々確認しながら生きてゆきたい。






以下は2016.6.25のpostの転載です。


(自分メモ、未否定仮説)
きのこたけのこ戦争は、相手を打ち負かすというより、「自分はこっちが好きだぞ」って主張をしたり、相手をケチョンケチョンにけなしたりできるのが盛り上がる原因のように思う。
つまり、人は褒めたがっている。けなしたがっている。それによって快楽を得ている。すると、それを「金を出してもやりたい」と思う人はいるはずだよね。
「自由に褒めることができる場」を構築して、システム作りをして、うまーくルールを作れば、課金によって収益が得られるのでは?
と思ったけど、ブログやウェブサイトや、最近ではニコニコ動画の「広告」コーナーとか、全部それだったわ





以下は2017.3.4のpostの転載です。


僕の持論として、
人間に必要なことは衣食住の次に「他人に必要とされること」。
お金はそのように使われるべきだし、国家規模でそれが維持されるためには補助金等も必要と思う。
「ロボットが仕事を奪う」とよく言われるけども、これが深刻なのは、現在の世界では「他人に必要とされる尺度」が金の収入として表されてるからだ。しかし、その尺度は変えることができるはずだと思う。仕事なんて面倒なこと、ロボさんたちにあっては、どんどん奪っていって欲しいと思う。
僕らは、稲刈りをする時間の価値でトラクターを買い、余った時間で農協を作ったし、銀行の帳簿をめくる時間の価値で集中管理システムを整備し、投資信託を始めたんだから、仕事がロボに委託されれば、別に何かを始めるし、それによって「他人に必要とされよう」とするもんだよ。
その転換先が、歌を歌うことであったり、文章を書くことであったり、愚痴を言う相談窓口ボランティアであったり、ボーイスカウト的な地域教育の場であったりしたら、より人間というのは進歩するんじゃないの。

また、もし、この世の全ての仕事が、ロボットに置き換わったとしたら、当然、全ての人が「他人に必要とされる」ための方策を考えねばならぬ。誰からも必要とされない者は、生きていく幸せが無いと言って過言では無い。
ぼけて寝たきりになった老人も、知的障害で結婚できない者も、誰も彼も、必要とされる世間。それが「一億総活躍社会」といえるのだろう。
今では介護の仕事が必要で、従事者は国と利用者の金をもらって生活してるわけだけど、未来にはどうなるのだろうか。





以下は2018.1.16のpostの転載です。


「どうやら、『他人』はおしゃべりをすることが楽しいようだ」ということに、ようやく思い至った。
というのも、合コンに行って、それなりに話が盛り上がったのだが、盛り上がっただけで今後の飲み会の予定とかつきあう話とかが一切無かったからだ。

合コンは、異性と喋るためにセッティングされた場であった。そして、「合コンとは、異性と喋るためにセッティングされるものだ」ということは、世間の常識だった。
僕はそんなこと一切知らず、婚活パーティと同じノリで挑んだ。男女が喋る唯一の理由は、婚活と誤解していた。なぜなら喋ることに快楽を一切覚えぬ(あるいは、代替手段が無限にある)僕はおしゃべりをするためにわざわざ高い酒飲んだり変なつまみ食ったりする理由が想像できなかったからだ。

目的と手段が乖離してたから、僕のほしかった利益が得られるはずはない。





以下は2018.10.25のpostの転載です。


結局、人は、安定してる方が安心するんだなと。
「その後」が予想できる方が、安心するし、そういうものを求めるのだと思う。以下安定する中心を「軸」と表現する。

軸のぶれていない人はステキだ。特に、独自の軸を持っている者は魅力的。周囲の人は、明示された軸を見れば、その人が命題に対して「どんな行動を取るか」がわかるので、同意を求められそうなら近づけばいいし、ダメそうなら距離を置けばいい。利用しやすい。
「わかりやすい人」というのは軸が他人からもわかりやすい状態であることが多い。さらに、彼の軸が彼の哲学に裏打ちされたものならば、その軸はさらに強固になる。場合によっては、同じ軸を共有したいと行って周囲に人が集まることもあるだろう。

独自の軸を持たない人はたくさんいる(と思う。というのも、自分はそれを想像できないのだ。しかし、『おそらくいるであろう』ということはわかる)。
軸のない人は、どこかに軸を求める。安定したいから。また、他人を軸として仮定することもあるだろう。「誰かのために頑張る」というのが軸に当たる場合もある(と思う。以下略)。

独自の軸を持たない人は、独自の軸を持つ人に、自然と惹かれるのではないか。孤高の存在で、周囲に流されない、でも社会規範に反したことはしない。そんな「周囲から見て軸のありそうな人」は、結果的にモテる可能性がある。






以下は2017.1.21のpostの転載です。


自分の周りに、ママしかいなければ、自分の意見と言うものはママの意見のコピーになろう。しかし、自分の周りに、他の人間が多くいれば、ママ以外の意見も多く取り入れることになる。

「既存メディア不信」という。既存メディアが言うことを、市井の人々が信じなくなっているという意味のようだ。
昔は、ラジオやら新聞やらテレビやら、大きめの企業が駆動する、いわゆる既存メディアの意見のみが広まり、多くの人はこれを受け入れることになった。
現在は、インターネットによって情報の拡散が著しく速く広範になったことにより、既存メディア以外の意見も受け取りやすくなった。

ママ(『既存メディア』)、もう独り立ちさせても良いではないか。多くの人間は、ママを盲信する操り人形ではないのだよ。それとも、ママ以外には判断能力を持つものはいなく、意見など無視すべきものだと?







以下は2015.12.5のpostの転載です。

しばらく仮説として考えていた「予想通りのことが起こると、快感情が引き出される」これはほぼ否定される要素が無いので、一般化して問題なかろうと思う。
挨拶というものがこれだし、マンネリズムのメリットの一つでもある。ネタに適切に反応したときに楽しいのはこのため。逆に、予定が狂うと嫌な気持ちになる。もし自分に損を強いるような予定があって、それを避けられる状態になるとしても、先に言われていたことと異なる指示が出たり、しなければならなくなったりすると、逆に面倒に思える。

要するに、「他人に通じるようなネタを言おう」ということだ。ほもみ君。







以下は2017.3.25のpostの転載です。


(自分メモ・未否定仮説)名称を募集する。
「加算個の行動パターンのうち、どれかが『正解』で、それを選べば自分の思い通りの結果を得ることができるハズだ」という考え方を否定的な意味で定義したい。
アンケート方式にするので、どれかを選んでほしい。

これはエロゲーによくある思考(攻略可能ヒロインは上記の通りに振る舞うし、要望が多ければファンディスクなどで攻略可能になるヒロインも多い)だと思っていたのだが、他にも「自分の要求に応えない恋愛対象や、そのつきあっている相手、または世界自体が間違っていると考えるヤンデレ」や、「答えのある問題を解くのは得意だが、答えの無い問題は解くことができず、むしろ『そもそも答えが無いから問題が悪い』なんて言っちゃう人」などにも適用でき、一般化が可能であると考えるからだ。

そのうち考察を進めていくつもりだが、この仮称を「ヤンデレ的思考」とするか「エロゲー的思考」とするか迷っている。どっちかというと前者の方が、口に出しやすいし、すでに独り善がりな意味を含んでいるので良いと思うが、実際のヤンデレの行動原理に当てはまってるかどうか曖昧なのが不安なのよね。
他に良い案があれば採用したい。


コメント from Shiina Shunsuke
「加算個の行動パターンのうち、どれかが『正解』で、それを選べば自分の思い通りの結果を得ることができるハズだ」
ここよんでギルドレ思い出した。
http://kodansha-box.jp/topics/guiltychildren/index.html

> 強大な敵の強襲に、カイルは「あらゆる確率を自在に操る能力」を発現






以下は2014.3.27のpostの転載です。

仮定:
彼は、世の中を「自分を許してくれるモノ」と「自分を許してくれないモノ」とに分ける考え方をしている。

問い:
あなたは、「彼」か?




以下は2017.1.22のpostの転載です。


【ヤバイ】プロゲーマー・ウメハラ氏の講演内容でゲームに対する価値観が変わると話題に!
http://otakomu.jp/archives/495710.html

わかる。
「にわか」時代が一番楽しいというのはこれが理由と考える。

また、実践もしている。
何事も完璧を求めない。艦これでも必ず未取得艦を残すし、デレステもマニーで買う曲をわざと買ってないのはこのため。
あーでも、今日「あんずのうた」proフルコンしちゃったからなー......少しマニーで曲購入するか。




以下は2018.9.2に行った転載の転載です。

「物事に打ち込むには、沈黙が必要で、ため込む時間がいる。なのにSNSで毎晩、毎分のようにコメントしていたら、時間なんか作れない。好きでやっていると思っていたら、いつのまにかドラッグのようにコメントを強要されている。そのうえ素人なのに『こんなこと書いたら嫌われる、たたかれる』とか、まるで玄人のように自己規制をしている。『キジも鳴かずば撃たれまい』ということわざがあるが、『鳴きたい(書きたい)けど、撃たれ(たたかれ)たくない』という感じになっていて、結局いらいらして鳴いて(書いて)しまって、撃たれる。つまり、ネット上でたたかれて炎上する。こんな繰り返しの中でクリエーティビティーなんて生まれるわけがない。SNSにもいいところはあるが、若者は発信することに疲れ果て、発信して批判されることにも疲れている」

ジャズの異才・菊地成孔が語る表現、若者、SNS
https://style.nikkei.com/article/DGXLASFK26H2F_W4A820C1000000?channel=DF130120166059

明日から使える言葉

以下は2015.1.28のpostの転載です。


業界人のあいさつが「おはようございます」の理由、
「彼らの中には昼起きる人もいれば夜起きる人もいる。だから『おはよう』に統一」ってのは前から聞いたことあったけど、

「日本語のあいさつの中で『おはようございます』だけ敬語だから」

という理由を聞いて「ほーーーっ!!!」と思った(堀江由衣は関係ない)。なるほど敬語なら下っ端も大御所にあいさつできるわけだ。「こんにちは」も「こんばんは」も、元の形はほぼ摩耗して使われてないもんね。

何にでも理由はあるものである。




以下は2014.10.19のpostの転載です。

「普通に」「死ね」「超」等、最近のはやりの話し言葉を、従来の意味や用法と同じテーブルで議論しようってのが無理なんだよな。
「日本語の乱れ」とよくいうが、それは単に時代に追い付けていない者のひがみだ。自転車に対して「自分で歩かないなんて横着だ、危ない」というようなものだろう。
自分の知らない言葉を理解しようとしたとき、その言葉を使っている者の気分や、その者にとっての価値観、対象の位置づけ等を把握しようと努力しないのは怠慢である。
とはいえ、そのような流行りの話し言葉を、通じない人に喋ったり、適切な場面を選ばなかったり、書き言葉で使ってしまう場合、話者の責任が大きい。



以下は2014.7.9のpostの転載です。

これ大好きwwww
「そういってあいつは~」の汎用性がすごい。
「飲酒運転?固いこと言うなよ」とか「助手席にシートベルト要らねえだろ」とかのセリフにボソッとつぶやくだけで効果あるはず。

斬新すぎる交通標語にネットユーザー騒然 「おもっくそ草生えたw」「何があった横浜」 - AOLニュース
http://news.aol.jp/2014/07/09/kotsuanzen/

漢字について

以下は2016.11.13のpostの転載です。

「十字路」は普通に理解するくせに「丁字路」はなぜか英字にしたがるよな
物を知らない連中が、「丁」という字をテイと読む機会にあまり触れないからこうなるんではなかろうか。ついでに、丁(テイ)とT(ティー)の発音が偶然似てたことによる。
完全に結果論だが、もともと「丁字路」を「チョウジロ」と読むように決めてれば、「○○町×丁目」という住所表記でよく用いる「丁」をきちんと想起することができたかもしれない。

「ヒルナンデス!」で道を教えてくれた男性が“丁(てい)字路”と発言 → 出演者が爆笑
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1902665.html




以下は2015.2.24のpostの転載です。

結局、僕が「新しい部首」を作るとしたら…と考えても、やはり電気関係、情報関係のものになるだろう。
今考えてるのは「アイオー偏」。縦書きでI/Oと書く。デジタルのものを指す時に使う。アイオー偏に網のつくりをひっつけて「インターネット」なんてね。





以下は2013.11.30のpostの転載です。

「はりつけ(貼付)」や「そうきゅう(早急)」、「せこう(施行)」「だいがえ(代替)」なんかは、混同や聞き間違えを防ぐためにわざと発音してる系なので間違えかと言うと微妙
逆に強力に批判するような者は、実際に仕事でその単語を使わないんだろうなあ/どちらかに偏った文化にいるんだなあ(『口腔』の例など)/働いたこと無いんだろうなあ、と思う。
口腔の「腔」の字は音読みが「こう」であって、そもそも「こうくう」って読みがあり得ないんだけど、そのへんはあれですよ、慣用読みだから。「うるさい」を「五月蠅い」って書くみたいなのと同じ。

僕は「重複」や「早急」「五十歩百歩」「施行」等は、周りの人が何と読んでいようと、頑として「ちょうふく」「さっきゅう」「ごじっぽひゃっぽ」「しこう」と読んでるけどね。

実は間違って読んでた漢字ベスト5
http://sonicch.com/archives/34508321.html

有用な示唆

以下は2016.4.26のpostの転載です。

「万全にしていれば、事故は起きないものである。もし事故が起こったら、それは加害者か被害者かその両方が原因なのである。」
「事故は起きるものであり、それを想定して物ごとを準備すべきである。非常に小さい確率でも、起きるものは起きるのだから、その事故があまりに甚大の場合取り返しがつかないので、事前に回避されるべきである。」



以下は2018.8.5のpostの転載です。

僕は「『自分は幸せだ』と思っている人が幸福だ」という考えなので、そういうことわざ的なのあるかなと思って調べてたら、変な通信販売が出てきたので参考にする。

このサイトのしくみはこうだ。
まず「『自分が幸せだ!』と思っている人よ、その『幸せ』は本当か?」と問いかける。
問いかけにもかかわらず「自分幸せっすよ」と言う人に対しては、「それは自分にウソをついてるサインです!」「あなたが受け入れないから拗ねてだだこねているのです。」と否定にかかる。
リンク先では、
実に怪しい方法が示される。しかし、その直後に体験談を掲げ、効果があるんだと信じ込ませる(ここまで読んだ者なら、ある程度のことは信じ切るだろう)。
価格は最後。ここまで説明をさせているのだから......という心理で押し切る手口。

結局、この方法で幸せになったとして、この商品が謳う宗教に入信しただけという評価になろう。自分で幸せを見つけることを捨て、その信仰に幸せを担保してもらうという、不確かな賭けをすることになる。
自分で自分を幸せにすることができ、あるいは自分で心のバランスを保つ精神力のある者は、最初のページで騙されない。
また、しっかりとした信仰がある者は、そっちの神様や、教義に、幸せを担保してもらってるので、このようなインターネット上だけの文章に騙されない。

学生の時にやらなかった?選択肢に「完全に」とか「一切ない」とか書いてあれば、その選択肢は疑ってかかれと(センター試験対策です)。
あれ、人生においても汎用性高いよ。「完全な幸せ」なんて、赤ん坊か白痴にしか訪れないよ。

今の「自分が幸せだ!」と思うことで不幸になる方法
https://ameblo.jp/gomezhanahana/entry-12166862241.html
→リンク先
ヒーリングセッションのご案内
https://ameblo.jp/gomezhanahana/entry-12146436630.html




以下は2014.3.27のpostの転載です。


「懲役30日」くる!?!?!!

薬物で時間の感覚を狂わせることで「懲役1000年」が実現できる可能性
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1792011.html



以下は2015.2.7のpostの転載です。

人口の少ない子供を無視して人口が多くて選挙権も持ってる糞ジジイどもを厚遇する
それが民主主義と言うものだ。

ところで>>188の
「188: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/07(土) 13:23:46.28 ID:QOOYK/cqd.net
俺足遅かったから鬼ごっこやると「◯◯にタッチするのは1人3回まで」とかいうハンデつけてもらってた
心遣いが辛かった

という書きこみに感銘。
やっぱ子供は自分で遊んでれば、みんなにとって一番楽しい遊び方を自分で見つけるんだよな、と。大人は本当に危ない時と、責任を取る時だけ出て行けばいい。

公園「ボール遊びするな!」親「外で遊びなさい!」子供「やることねぇし外でゲームしようぜ」世間「最近の子供は外でゲームか」
http://himasoku1123.blogspot.com/2015/02/blog-post_470.html



以下は2015.6.26のpostの転載です。


ほーーーーーーー!!
この手があったか!!
これは誰でも嫌になるwww

ゲームにハマった子供を飽きさせる方法が画期的だと話題に
http://hamusoku.com/archives/8861923.html



以下は2015.10.18のpostの転載です。

最初は原始的な回路だったのに(それでもすごいのに)、
ここまで進化するとは……!
今回は特に結果出力が見やすくてクール。

最初(偉大な先駆者)
【論理演算】マリオメーカーに「3+3=6」を計算させてみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27235148
同作者が出力を10進数にした
【論理演算】マリオメーカーに「3+3=6」を計算させてみた Part2
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27270694

後続
マリオメーカーで4,294,967,295+4,294,967,295を計算してみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27351491
最新
【34bit】マリオメーカー計算機で171億(略)+171億(略)の結果を表示してみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27383127




以下は2017.2.8のpostの転載です。

ニートが考えたにしてはわりと悪くない案
つまらん

以下引用「31 :以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/02/07(火) 10:16:07.276 ID:fY05BZcD0
現金ないのに家買う人に、ローン通すためだけに一時的にお金貸す仕事したい
33 :以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2017/02/07(火) 10:18:00.657 ID:fY05BZcD0
うお!そうか、自分で書いてて頭整理できた
司法書士に相談しよう 」

【!?】親の遺産(1億円以上)を持ったニートが考えたお金の使い道
http://otanew.jp/archives/8803643.html

リンク先で考えたことについて

以下は2017.5.4のpostの転載です。


超わかる。僕は「対応型」だ。投稿前に内容を精査するし、文体も常体だ。

筆者と同様、変な衝突が時々ある。よく「偉そうな言い方してる」と言われるし、基本的に相手さんは僕の文を読まない。
相手さんは「感想型」なのかもしれない。

また、長文を書くのが全然苦にならないのは、無関係ではなかろう。


【17000RT/240000PV】BBS世代とSNS世代の違いから考察する言語認識の根本的違い――ネットに向かって喋る人たち
https://hyogokurumi.hatenablog.com/entry/2017/04/29/204727


以下は2014.3.27のpostの転載です。

資料的価値がある事例だと思う。
俺は彼のことを他人の言として見ることはできないが、世間はおそらくこれを「頭がおかしい者のおかしい言動」としてとらえ、まともに読もうとしないのだろう。それが何よりも悔しい。
別に彼を擁護する気はないが、彼の発した言動や意見陳述の内容は本当に興味深い。彼は何かをしたくて罪を犯したんじゃなくて、やつあたりの矛先に、自分の近くの世界のものを選んだだけなので、彼の思考回路自体が狂っていると考えるのが普通だ。そんな者が、自分を分析して文章をわざわざ書いてくれるなんて希有な事例、無いぞ。


「黒子のバスケ脅迫事件」犯人「お前らが納めた税金でプリズンニート生活ざまぁwww」「黒バスクラスタの皆さん、実刑を一緒に喜んでくれてありがとう」
http://jin115.com/archives/52037945.html

【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告の『最終意見陳述』感想
https://togetter.com/li/714795





以下は2015.2.14のpostの転載です。

馬鹿はしばしばこのような論法で話をする。
しかし、ジャッジをする者も馬鹿なので、「議論で負けになる」ことは実は少ない。
特に9番や12番、29番、30番はよく聞く。


議論で「負け」が運命付けられている思考方法30パターン
http://gigazine.net/news/20150213-logical-fallacy-collection/




以下は2018.9.13のpostの転載です。

価値ある答えだ。このくらい答えられなくて、どんな「大人」か。

自分の考えを言語化するための、自分メモとして再共有。


「なんで働かないといけないんですか?」と聞いた学生への、とある経営者の回答。
https://blog.tinect.jp/?p=10598


以下は2013.11.16のpostの転載です。

この記事は本当に読む価値がある。

コメント欄、賛否両論あって大変に面白い。もはや芸術のようだ。厳しい社会風刺をまとった文学作品のようにさえ見える。
筆者に同調する者、放射脳、動物愛護の観点から筆者を気違い呼ばわりする者、外国人(欧米の方がよっぽどウサギ食うだろw)……入り乱れての華やかなコメント欄。

本文は、良いことか悪いことかはおいとくとしても、筆者の感じたこと、考えたことがたくさん書いてあって非常に興味深いものとなっている。
自分を振り返って、違う世界に触れている実感と言うモノを、読者に伝えている。画像があるのがさらに良い。わかりやすいからね。

うさぎはかわいい味がした。うさぎ狩りと解体してきたよ。
http://chiharuh.jp/?p=2940



以下は2015.5.1のpostの転載です。

いい話じゃん、と思ったが、2chのクズどもの反応が批判的で驚いた。色々言いたいことはあるが、あれだな、価値観の違いを感じた。

僕は下にいたら男子生徒と同じ行動をとりたいと思う。それが「今、自分に可能な最大のこと」だから。
それに、実はシーツを広げる行為は、女子生徒が実際に落ちてこなくても非常に効果的である。自殺したくなる時は、自分を「世界全部から否定されている」と思いがちであるところに注意すべき。男子生徒の行動はそれを真っ向から否定するものであり、女子生徒が自殺を思いとどまったのも実に道理と言える。



【画像】 ビルの屋上から飛び降りようとする女子大生をシーツで受け止めようとする学生たち
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1838272.html



以下は2015.12.19のpostの転載です。

前半は割とまともなこと(『論点』の話題のあたり)を言ってると思ったら、後半はただの「ネトウヨは悪」「民主主義が後退している」という政治思想の主張だった。文章中盤で意図的に話題をネジ曲げている。
特に「高学歴」がどうの、「鳩山由紀夫」がどうの、「民主主義」がどうのという、それまでに出てこなかった単語をぶっこんできたあたりで違和感の塊。最終的に政治思想を述べたいと思っても、それなら持っていきやすい「論点」が必要だろう。自分の文章として、上の方で「論点」って話をしてたぞ。それとも、話者が1人なら話がかみ合わなくてもいいのか。
特にわかりやすい詭弁の例と思うので、この文章を精査して、思想の押し付けやバカバカしい文章を無駄に読まないように学習したい。


ネットが進化、人が退化
https://ch.nicovideo.jp/BBBB/blomaga/ar931175




以下は2015.12.27のpostの転載です。

日本語で、「○○の良い所ってどこ?」とか「○○に意味はあるの?」とか問うと、
「良いところなんてねーよクズwwwww」・「意味ねーわ死ねwww」みたいに煽ってるニュアンスになるじゃん。自動的に反語を伴って解釈されるじゃん。あれどうにかならないの?

これについては、「発達障害」とか「自閉スペクトラム」とか言われる人は、この問題が限定的のように感じる。
言葉は意味通り受け取る方が自然だし、ありもしない裏の意図を深読みしてトンチンカンな受け答えをするのはおかしいと思う。
その意味では、むしろ定型発達者の方が、妄想をたくましく発揮する支離滅裂な異常者である。





以下は2015.12.29のpostの転載です。

なぜこのスレには、こんなにもバカしかいないのか
歴史は何度も何度も繰り返すんだから、過去に何があったかで、未来を予測し回避も可能だからに決まってんだろ
ロシアの条約の守らなさとか、中国の民度の低さとかは、歴史を学べばある程度納得できるもんだぞ。アメリカの、国民を報復戦争に駆り立てる過程とか、ドイツのナチ党のやり口とかは頻繁に引用される。

歴史の授業ってなんのためにあるの?
http://alfalfalfa.com/articles/140627.html




以下は2013.10.30のpostの転載です。


悪口言えない僕にとっても、このスレはけっこう興味深いんだよな。
僕は悪口言わないのが普通であって、逆に、悪口ってどうやって作るのかがわからない。このスレを読んで、他人がどのように悪口を出してしまうのか、またそれをどのように考え、克服していくのか、知ることが面白い。
何も知らないことを少しずつ知っていくことで、まっさらな雪原に足跡をつけていくような気分を味わえる。

誰も憎まない、悪口言わないことを目標にする人
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4047564.html

自身のアイデンティティについて

以下は2014.1.28のpostの転載です。

自分の思想群を「線形心理学」とでも呼ぼうかと思う。
「人の心は複雑」だけでは、僕の心は落ち着かない。
なんとか定義の方法を工夫して、四則演算できるところまで持っていきたい。
計算するためには、変数の定義や、正負の符号の定義などから構築しなきゃいけないからめんどうだけど、そこは趣味だから。
細かい定理や法則を積み重ねて、体系化したい。



以下は2014.3.11のpostの転載です。

「自分をわかるためには、
 自分が「何」であるかを考えるのではなく、
 自分が「何」を失えば、自分でなくなるかを考えるとよい。
 
 ところで、中原さん
 中原さんは「何」を失えば、中原さんではなくなりますか。」以上引用
自分が「何」を失えば、自分ではなくなるのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/06/post_1257.html


これ、良いな。

僕は何を失えば自分で無くなるか。
「素直に評価すること」「とりあえず気持ちだけでも楽しもうとすること」「歌うこと」「考えること」
こんなところかな。

歌って楽しんで素直に考える。
うん、僕だ。




以下は2012.6.24のpostの転載です。

「生命」ってのは、「流れ」に宿ると思っている。
 死んだ人間は、どこで死んだと判断されるか?「流れ」が無くなったという所だ。血液の「流れ」が無い。意識の「流れ」が無い。瞳孔が正常に反応しないのは、神経の「流れ」が無くなっているからだ。
僕はこの考えを得てから、テレポートについての知見が固まるに至った。「別の場所に、僕の体と同じ構造を原子レベルで再現しても、そこに『僕』は現れない」。そこには、流れが無いからだ。しかし、「流れ」をも再現するようなテレポートがあれば、生命の再現もできるだろう。
 また、「魂」はこの「流れ」自体である。「身体」は、言うならば「流れ」ている物、「流れ」る場所、である。それらは両立してこそ意味があり、片方が止まればもう片方も存在できなくなる。



以下は2015.11.5のpostの転載です。

「日常生活をする」ためには、複数の不自然なルールを頭にたたきこんでおく必要がある。
僕はこれを時々、忘れる。
対して、忘れない人もいるのだろうな、しかもその方が多数派なのだろうな、ということは、これまでの人生の経験の中で学んでいる。

例えば、「人前で歌ったり踊ったりしてはならぬ」とか。「一緒に歩いている者が横断歩道でない所を横断しようとしても、それを止めてはならぬ、さらには一緒に渡る必要がある」とか。
これらのルールは生きるために有用である、が必要ではない。ルールは地域によって異なり普遍性は無いし、必然性も無い。

僕らは、「日常生活」の中ではこれらを遵守しながら生きているわけであるが、はてさて、その姿は本当に「自分」だろうか。複数のルールの縛りの中で生活していて、そのルールの外のことを知らない「自分」は、完全だろうか?
「自分探しの旅」というのは、そういう意味で価値があるのではないか。いったん、ルールから離れてみて、世界がどのように見えるのかを試してみる。自分がどのように生活できるのか、やってみる。最終的には、「なぜ、ルールがあるのか」を自問自答する。

僕らは、若いうちに必ず、それを確認すべきではないのか。そうでないと、ルールの中で生活していくことしか知らないまま成長し、ルールの枠内で自分を構築していくことになる。特に問題は生じないかもしれないが、ルールの有用性を自分で見つけることが不可能になる。「自分で考える」という機会すら、無くしてしまうかもしれない。
自ら様々なものを定義し、その意義を考え、唯一性を考察し、代わりになるものが考えられるのなら、なぜそれに取って代わらないか理由を考え、世界の在り方を問う。自分の在り方を問う。

ルールを時々忘れるのは、実は悪いことばかりではない。「なぜ、してはいけないのだろう」「なぜ、しなければならないのだろう」と、確認する機会が増え、自然と自己への洞察が培われていくのだ。



以下は2017.4.30のpostの転載です。

一行しか読めない人のための要約:他人はどうか知らんけど、僕はいわゆる「夜景」などに価値を感じない。

夜景は美しいものである。
ライトアップされた桜とかタワーとかは美しいものである。
イルミネーションは美しいものである。

……といへり。
なんか、世間での常識というか、そういうアレで、「美しいものである」ということになってるわけだけども。
僕は全然そういう気持ちにならんので、複雑である。
さすがに、もう大人なので、他人に合わせて「あーそうだね綺麗だねー」とテキトー言っているが、本音は「価値なし」である。函館みたいに、地形が光によって浮き彫りになるのは、興味深いと思うけど、そういう要素の無い夜景に価値を感じない。

もちろん、好みの話なんだがな。
蛍は毎年見に行くし。花火は芸術的な意味あると思うし。
人間の、「火」に対する本能的な親しみの現れなんだろうな。僕はそれを感じないってだけで。



以下は2017.4.11のpostの転載です。

僕が死ぬときはホント
何でも無いようなどうでもいい事故で
死後にネタにされるようなバカみたいな死に方が良いな
岸壁で寝てたら落っこちて溺れて死ぬとか
軽自動車で50km/h制限の道を100km/hで走ってスリップして壁に激突して死ぬとか
死ぬときは絵にならないで死にたい。



以下は2017.1.24のpostの転載です。

「大学時代にやっておくべきこと」みたいな本を読んだことがある。
幸いにも、大学時代に。

「ひとりになること」というのが重要な項目の一つとして上げられていた。
集中して物事を考えるには、余計な刺激から意識を遠ざける必要がある。
そしてそのためには、スマホを置き、一人になれる場所を持つことだ。
そこで自分を見つめることで、考察の力と、孤独に耐え打ち勝つ力を得る。

僕は田村ゆかりのライブに大学3年時に行き、旅の道中で孤独を経験した。
そのときからかな。「旅は孤独を感じるためのものだ」というような意識を持つようになったのは。



以下は2014.4.7のpostの転載です。

僕は暗いところを好む。食事をするときも、本を読むときも、僕は暗い所の方が落ち着くのだ。

僕は職場で昼食をとる時、弁当を食うのだが、場所は自席でなく、奥の物置き兼打ち合わせ室みたいなところでとる。理由はいろいろあるが、簡単に暗くできるのもその一つだ。
物置きでもあるので、時々昼休みの時間に課の人間が出入りする。その際、電気が点いてないのに人間がいることに驚き、「暗いでしょう?」と声をかける。「ええ、暗いのが好きなので。」と僕は返す。彼(女)は電気を点けて自身の用事を済ませ、そのまま出て行く。僕はすかさず電気を消す。
何かの用事で彼(女)が再び物置きに入ってくると、また、「暗いでしょう?」。まるで、電気を点けておくことが良いことのように、恩着せがましく電気を点けておくことを主張し、僕が否定して、もう一往復ほどのやり取りののち、相手は釈然としないような感じで部屋を出て行く。

常識では、人間がいるところには電気が点いていないといけないという文脈があるようだ、どうやら。しかし、僕はその文脈にはそろそろうんざりしている。

見えない力学について

以下は2014.11.24のpostの転載です。

僕は、「可能なことは、行われる」という立場を採っている。

それがどんなに非道なことであれ、矛盾していることであれ、卑怯であれ、無配慮であろうとも、可能であるということは、行われる可能性が十分にあると考える。

また、行われる場合は、その理由として行為者の利益や、状況の限定が考慮される。
行われない場合は、そのいずれかを欠く。

マーフィーの法則も非常に興味深いけど、これはちょっと角度が異なる。
「人が、悪意を持って行うこと」に適用するつもりで作った言葉。「誰もそんなことしねえよwwwww」という考えに対抗するためでもある。





以下は2012.9.19のpostの転載です。

「力を持つものは勝ち、持たないものは負ける。」
僕はこれを全ての基礎としてさまざまな考察をしている。
なお、「勝つ」の定義は「自分が思った通り・それ以上の結果を得ること」、「負ける」はそれ以外。
また、「力」とは物理的な力以外にも、他人を動かす力や事を有利に運ぶ力も含める。

 例を挙げよう。
ある女Aが、男Bを痴漢の罪で告発した。Bは無実だが、いろいろあってAはBから示談金をせしめることができた。
この場合、Aは勝ち、Bは負けた。それはなぜか?
Aが持っている力は、とにかく先手を取った勢い(Bの思いがけないことをした)があること、痴漢の告発では女が有利であること、っていうか猥褻周りの法律の適用が圧倒的に女より男に多いこと、自分は被害者であると強弁することで得られる周囲の同情、などである。
Bが持っている力は、やっていないという事実だが、証拠は無く有力ではない。しかもAの持つ力は強大なため、対抗するにはもう少し材料が必要だ。
また、Aはもし「負け」ても、「間違えちゃったーごめんねテヘペロ」で済むが、Bは「勝っ」ても得るものは何もない。Aには戦いにリスクがない。Bには戦うメリットがない。これによって士気の差が大幅に開く。Aが勝つのは、そう考えれば必然である。Bが勝つためには、常日頃から法律の勉強をしておくとか、知り合いの弁護士を持っておくとかの準備が必要だったが、まあ公平に見て不利だ。

 世の中に「力」は無限の種類があるが、この相対的強さは場によって変化する。
たとえば、ここに1週間先のことが目に見えるようにわかる者Cがいたとして、同時に、この世にギャンブルの存在が無かったとする。すると、Cは、周りの人々の尊敬は受けるかもしれないが、おそらく現実よりは多くの富は得られないだろう。Cの力は非常に強力だが、力が及ぼす影響力の大きさは流動的である。
アイスホッケーの名手のDの名声は、北アメリカでは轟くかもしれないが、日本では微妙だろう。「アイスホッケーのうまさ」という「力」が、大きく扱われないからだ。

 だから、数多くの「力」を持っていると様々な場面で有利になることが多い。一種類しか無い「力」は、その「力」が通用しない場にあっては、意味をなさないからだ。アニメを知らない人々の前で、アニメの薀蓄を語っても、まったく有利に事が運ばないのと同じである。
人間には、取得可能な「力」の種類が多い。これが他の動物だと、イケメンである、ケンカが強い、そのくらいだろう。だから、僕は「動物」でなく「人間」であるために、多くの種類の「力」を求めるべきだと思う。
「日本語がわかる」だけではなく「英語もちょっとはわかる」、「サッカーの達人」だけではなく「野球もルールくらいならカンペキ」、など、自分の保有する「力」に多様性を持たせ、使う場面を有効に間違わなければ、きっと、男も女に勝てる。


はずだ。


いや、やっぱ無理かな......女は団結して既に営々と積み上げてるからな、女が有利な社会にするための、社会の常識、という「力」を。(例:「暴力は罪」として、男が持つ有効な力が一つ封印されてる)


なお、ここでは「善」「悪」については述べていない。述べるとしたら、「善」は他人を同調させ自分の味方を増やす「力」だ。

懐かしの遊びについて

以下は2014.6.1のpostの転載です。

ボール遊びの「ルンペン」ってみなさん知りませんかね?
学童保育で死ぬほどやったのですが。

田の字型のコートがあり、左下から反時計回りにルンペン、市民、騎士、王様の陣地。
使用ボールはゴム毬。基本的にテニスのように、自分の陣地に落ちたボールを、手で打ち返して他人の陣地に着地させます。
サーブはルンペンから騎士へ。あまりに騎士が取りづらいサーブをした場合、やり直します。
打ち返せなかったり、毬が自分の体(手のひら以外)に当たってしまったり、自分の打ち返した毬が自分の陣地や、誰の陣地でもない所に行ってしまったらアウト。ルンペン以外は、ルンペンへ。ルンペンがアウトになると、後ろで並んでいる人と交代です。
上位の者がルンペンに落ちることで空いた位は、下位の者が繰り上がりで成りあがります。王様がアウトになると、騎士が王様へ、市民が騎士へ、ルンペンが市民へ。
意外と王様はヒマで、つまらないのでわざとアウトになったりしてたなあ。原因は騎士のレシーブエース。ルンペンだけが交代してゆく……。

ルンペンは差別用語で、ドイツ語で「乞食」。

2019年3月30日土曜日

人類という種の生殖について

人間の技術の進歩と負担の軽減の方向を考えると、そろそろ「妊娠」「出産」の概念は古くなると思うわけよ
来世紀には試験管ベビーが多数派になると思うわけね
そうなった時に、どのようなことが起こるのか、考えたい。思想とか、男女の区別とか、子供の養育方法とか、人口調整とか、財産の分配とかそういうの

「家族」って「金銭的必要」「養育的必要」「情緒的必要」などについて相互扶助関係があるから成り立ってると思うんだよね
でも、今よく言われてる男女平等が進んだ場合、金銭的必要もなくなるし、情緒的必要は機能するかどうか怪しい。その上で、子を作ると養育するための人手がどうしても必要なので、そのためだけに家族を作るという感じになるかも。
そこで、「あっ、女の人も別に産まなくていいです、男と同様に働いてください」ってなったら、普通に「家族」って要らなくなるよね。
昔はいろいろなことにむちゃくちゃ人手が要ったから「イエ」が主流だったけど、今は「核家族」で済んでいるように、今後は「個人」なんだろうなと。
保育士さんはたくさん要りそうだが、子供の養育しなくていい分女性の人手は確保できるし、大丈夫かもな
モチ、生殖よりももっともっと早く介護は半自動化される。社会的責務が個人に押しつけられるのを防ぐんじゃ~

過去に比べて、圧倒的に便利になったのに、「働く」ってことが全然無くならないので、ベーシックインカムがうまくいったとしてもなお、「働く」こと自体は無くならんと思う。僕の考えが固いだけかもしれんけど
そのへんは時間が過ぎてみないとわからない部分が大きすぎる



コメントfrom Rita Cinquetti

コミックの銃夢LOに出てくるザレムという都市はそれやね。生殖機能は取り除いてあって、子はコンピュータによって遺伝子配合して産まれて養育親によって育てられる世界。


コメントfrom Ryogo Mochizuki

ボクは少数派かな。働くことを機械にやらせて家族と一緒に過ごす方に時間を使いたい。他人にベビーを作らせるより精子卵子バンクから選び女性の子宮に埋め込む方がまず主流になるかな。試験管は次々世代23世紀あたりか。

オリンピックの政治利用について

以下は2018.3.3のpostの転載です。 

「オリンピックの政治利用は問題だ」という論調が多くあるけど、僕は「オリンピックの政治利用」に容認の立場なんだよね
いくつか理由があるから説明する。

1 オリンピック自体が政治団体であること
オリンピックでは平和を謳っているわけだが、平和が大事だよという主張が政治主張であることは間違いなかろう(っていうか政治的じゃない主張って何だろう......禅問答かな?)。
また、フランスとギリシャの意向をつよく反映した組織だ。それはオリンピックの入場行進からもみえる。
最初にギリシャが入場するのは、古代オリンピックからの伝統だ、そこを政治主張と言うつもりはない。でも、例えばギリシャの隣国「マケドニア共和国」が「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として出場しているところは、多くの人が違和感を覚えることだろう。
マケドニアはユーゴからの独立時に、旧マケドニア帝国の領地だった地域を領土とすることから、国号を定めた。しかし、影響力の強いギリシャがこの国号にぶち切れて、国号を替えるよう継続的に抗議。国連加盟名も"The former Yugoslav Republic of Macedonia"となっている。オリンピックには国連加盟国以外も出場していることから、国連の下部組織ではなく独自に出場国を認定していることがわかるが、ギリシャの意向が反映されていることがわかる。

2 国を挙げての一大式典であること
オリンピックには金がかかる。ゆえに、開催国は多くの事業をこれ中心で進めなければならない。国家プロジェクトであるから、様々な要因が組み合わさって、イメージキャラクターや、スローガンなどが決められる。それらに政治主張を入れるなと言うのは、無理な相談だ。
また、開催国ではないところから、各国代表の大選手団が送られ注目される。国を代表として送られるというのは、単純に来るだけの意味が込められているのではない。国内の、多くの練習施設やコーチ、切磋琢磨する仲間、観客の応援、渡航を応援する人たち、広告を任すメーカー、報道機関、それらを背負って代表は来る。そんな各国の力や目が集まる場で、むしろ、主張をしないで、どこで主張するのか。世界でも有数の、政治主張の場ではないか。

3 すでに行われているということ
すでに......というか、毎回普通に行われてますよね。政治主張。
一番わかりやすいのが、モントリオール・モスクワ・ロサンゼルス各オリンピックのボイコット。それ以降は、オリンピックは商業に傾倒していきますが、オリンピックの開催が莫大なお金がかかることですので、それを担う以上、政治主張くらいしてもいいじゃんと思うのは僕だけだろうか。

自分の言葉について

以下は2016.4.25のpostの転載です。

聞きかじった偉人の言葉を無節操にひけらかすのは三流に満たない。
時に及んで偉人の言葉を引用できるのは三流と言ってよい。
偉人の言葉を心に留め、口に出さずとも実践できて二流だ。
一流は自分で言葉を紡ぐ。



以下は2016.5.20のpostの転載です。

「車輪を作ったら、道を舗装せよ。」