2019年4月1日月曜日

二次元力学について

以下は2015.12.25のpostの転載です。

そこでは、ものは「あるべき」ように在る。
努力は報われ、怠惰は罰せられる。
正義は固定され、すり合わせの必要が無い。
言葉や行動すべてに意味があり、必要でない人物はいない。
まさに理想郷。
それが「二次元」という世界だ。



以下は2015.8.28のpostの転載です。

二次元に限らずドラマや映画等が魅力的に見えるのって、「一作に大して『物語』が可算個しかない」からなんだよな。

全ての設定はほとんど唯一の「物語」に合わせて取捨選択されており、必要な設定だけが残り、ストーリーを邪魔する設定は排除されている。その上で展開される「物語」は、余計な描写が無いので受け入れられやすい。
対して現実では、「物語(と呼称するものがあったとして)」の本筋から外れた、邪魔な要素もバンバン起こる。それは「物語」が無数に絡み合っているからだ。ある一つの「物語」から見たら必要な設定・ストーリーでも、他の「物語」にとっては、進行を邪魔する、目の上のたんこぶのような、うっとうしい存在でしかないかもしれない。

そんな中で、二次元(あるいは、ドラマとか映画とかでもいいけど)の主人公というのは「物語」を抽出された、選ばれた者だ。この者に感情移入すると、作品内で起こることが全て自分の為に起こっていることなので、あらゆることを受け容れられるようになり、「素直な気持ちになれる」とか「感動した」とかいう爽快感・充足感を得られるようになる。

なお、わざわざ排除されている邪魔な要素を、「物語」を見ているときに突っ込むのは「野暮」とされる。例えば、「プリキュアが変身してる時に、なんで敵は攻撃しないんだよ」や「探偵に追い詰められて殺人を自供した容疑者に警察が手錠をかけたけど、こいつまだ逮捕状出てねえだろ」等というもの。




以下は2017.10.20のpostの転載です。

王様が「オラア貧乏人ども!100Gやるから魔物退治行ってこいや!!」ってその辺のスラム街の子どもに無茶ぶりして(口減らしのため)
放り出された子ども(『勇者』)が「こいつと戦え!」って向けられる相手は宗教が異なり言葉が通じず肌の色が少し違うだけの同じ人間で
放浪してる異教徒を殴って倒すと異教徒が持ってる金をカッパぐことができてお金が得られて
勇者が異教徒の街に行くと『魔王城』に近づけば近づくほど自分は周りにとっての異教徒になるわけで高い値段払わないとモノを売ってくれなかったり人種差別されるから殴られたりして「あ、自分が最初殴ってたのこういう異教徒だったのか」って気づいたりして
異教徒の親玉(『魔王』)は単に別の国の王様で衛兵とかいて倒すの大変でレベルがたくさん必要なんだけど、倒したら倒したで得るものと言えば城の財宝を強奪したり城下を略奪したりするくらいで
「俺、何しに来たんだっけ」って家に戻ると「ゆうしゃさますげー!」とか言われて近所の男の子が「俺もゆうしゃさまみたいにまおうたおしにいくー!」って言って絶望する

みたいな話読みたいです


ドイツ騎士団とリスアニア大公国らへんを想像しながら書いたよ
略奪?いいえ聖戦です。


魔王城に近づけば近づくほど、敵(異教徒)を倒したときの収入が多いのは、そんだけ魔王の国の財政が栄えてるからで、中央に住んでる人ほどお金持ち。
これで、「後半になると敵を倒したときの金が多くなる」を説明できる
あと「魔王倒しに行かせるのに粗末な装備しか渡さない理由」も説明できるし「魔王城の近くの方が敵が強い」こともわかる
なお、魔王を倒した勇者の物語は、本人にインタビューした上で歴史家がいい感じに脚色してカッコいい話に仕立て上げます。

さあ、君も王様と正義のために、魔王を倒しにいく旅に出てみないかね!?

0 件のコメント:

コメントを投稿