2019年3月29日金曜日

SNSの投稿について

以下は2018.2.13のpostの転載です。

いいか、もう一度言う。これは主義主張に限らない。
コメント欄で「日本語会話講座」が開かれた場合は、その後のコメントを無視せよ。
質問に答えない者、指摘に返答しない者、読むべき資料を読まない者が出現した証拠だ。
時間の無駄だし、リソースの浪費になるから、これらとは語ろうとするな。
これは「自分と意見が同じ方向かどうか」に限らない。


以下は2018.1.29のpostの転載です。

コメントで「日本語会話教室」が開かれた場合は、それ以降のコメントを無視すること。
コメントでレッテル貼りによる人格否定を行う者が出た場合は、それ以降のコメントを無視すること。
自分にとって有害なネタバレに、自分の責めに帰す形でなく遭ってしまった場合は、最もその事象に寄与している投稿者等を速やかにブロックすること。



以下は2015.6.11のpostの転載です。

匿名型のSNSにおいて「やっちまった」時に必要な行動は、黙ること、そして寝ることだ。
なぜなら人は忘れるから。当人にとってヤバいことでも、周囲の人にとってはどうでもいいことが多くある。そして無暗に発言することは、人々の忘却を妨げる。自分で自分の失敗を引きのばすのと同じだ。無意味、どころか余計に立場を悪くする。
さらに、自分の認識を落ち着いて見直し将来に生かすためには、寝て起きてひと呼吸おく必要がある。パニクっているときに変に行動して余計に事態を悪化させた思い出は誰にでもあるはずだ。

だから、黙って寝るといい。



以下は2015.6.9のpostの転載です。

人がありのままの姿で語る時
その本音とは
遥か遠いところにいる。

仮面を与えよ、
人は真実を語るだろう。

by オスカー・ワイルド
(ヴィクトリア朝時代を代表するイギリス文学作家)




以下は2013.9.1のpostの転載です。

Re'sume':
Q.最近のtwitterのバカは、なんでわざわざ犯罪自慢すんの?
A.甘やかされてるから。

twitterのバカ騒ぎや、犯罪自慢について、「なぜこのようなことが起こるのか?」と考えた結果、「今の若者は『許され』すぎているから」なのかもしれんと思った。なお、「許される」という単語は、僕個人の勝手な定義による意味づけが別に行われてるので普通の意味だけに留まらない。だいたいの定義っぽいことを書くと、「自身の行為に対して、責任を問われたり叱責を受けたりすること無く、周りが解決してくれること」かな。

「許される」、あるいは「守られる」ことに慣れてしまったために、「許され」なかったり、「守られ」なかったりするのに異常な無関心があるのではないだろうか。
日本で発売している商品で、口に入れると危険なものというのはほとんど無い。これは、消費者が企業に「口に入れることを許されている」とみなすことができる。企業はあらゆるシチュエーションでどんな消費者がどんな無茶をやっても、事故が起きないよう極力努力している。なので、消費者は日常ほぼ何も考えること無く生活することができる。
学校も、「許される」ことが顕著な場の一つだ。そこでは、生徒はほとんど何をやっても「許される」。学級崩壊させても責任を負う必要はないし、先生をボコっても先生は反撃できないし、勉強しなくても寝てても他人をいじめてもタバコ吸ってもOK。良い場所ですね。

同質の議論で、家庭でも、友人関係でも、「許され」続けていると、そのうち感覚がおかしくなってゆく。
自分は、<<何をやっても『許される』>>のだと。
普通(?)は父親がきちんと叱ったり、近所のオッサンに諭されたりするはず。「許され」ない経験が重要だ。しかし、その機会が得られないまま(または、叱られてもそれを『相手が悪い』などとみなして学ばずに)ネットの世界に出ると、痛い目を見る。

社会は、決して<<何をやっても『許される』>>世界では無い。
例えば仕事には責任があり、失敗すれば自分がその責を負う。犯罪やモラルハザードにも大きな意味があり個人の手に余ることも多くある。
それは、「許され」ない経験を得たことがある者にとっては当たり前のことだ。
しかし、「許され」ない経験を持たない者にとっては、体験したことの無い感覚だろう。

普通は、社会に出て最初の軽い仕事で先輩や上司に死ぬほど怒られて学んでいくのだろうが、現代の若者はそれを学ぶ前にネットの大きな闇の口にアクセスすることができてしまう。「許され」ると思って、「許され」ないネットの海に沈没してゆく。

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