2019年3月22日金曜日

「宗教的なアニメ」について

以下は2011.11.8のpostの転載です。
・「宗教的なアニメ」 僕の中で「宗教的な展開」というのが主要なパターンの一つとしてある。アニメだけじゃなく漫画とかラノベも含む。作品で例えると「ロザリオとバンパイア」、「とある魔術の禁書目録」、「GTO」、「祝福のカンパネラ」などなど。
 基本構造は、「主人公には基本的な思想があって、それに合わない奴らを改宗・入信させて自分の思想に染めていく」というもの。大きな特徴としては、「敵が味方になる」。主人公は多くの場合「神」ではなく「教祖」であるが、構造上モテるし慕われる。

目次
・「宗教的なアニメ」
・「宗教的な作品」の思想
・「宗教的な作品」が創出する正義
・「正義」の相対化

 これらの作品(以下『宗教的作品』とする)では、主人公の思想は読者の共感を得られる物でなくてはならず、ある程度偏る。作品の舞台がどこだろうと、改宗させる相手の種族が何だろうと、読者の共感を得られなければいけないので、必然的に現代の中高生くらいのメンタルに沿う(沿わなければならない)。


・「宗教的な作品」の思想 「宗教的作品」がなぜ生まれるかを想像してみる。まず主人公Aと周りの人間Bがいてラブコメやらなんやら日常的な描写をする。これは中高生に受けが良い。んで敵Cが出てくる。倒す。ここで、Cを殺せない事情がいくらか出てくる。話し合いで解決しろとか、Cにも事情があったから可愛そうとか、Cが女の子のキャラで可愛いし人気あるので殺すのは惜しいとか、まあ色々だ。
Cを生かすにはどうすればいいか。Cを牢獄に入れてはいけない。これは後々までA,Bの心に引っ掛かる棘となって話が暗くなり、A,Bの日常的描写ができなくなってしまう。ドジっ子月野うさぎが主人公の「美少女戦士セーラームーン」シリーズ第5作「セーラースターズ」は開始4話で味方一行がかなり絶望的状況に陥り、話がいきなり暗くなった。このペースで1年が始まっては、そりゃあ人気も終わるだろう。同じことが一般的に言えて、最初A,Bの日常描写で読者を惹きつけていた手前、作品全体を暗くしてはならない。Cを倒した後は、敵Dが出てくるまでは平和な日常が展開されなければならない。
 その解決法の一つが「Cを味方にする」だ。CがAやBの思想に共感して仲間になるなら、AやBに感情移入している読者も、自分が受け入れられたような感覚を味わうことができるだろう。


・「宗教的な作品」が創出する正義 「宗教」は正義を創出することができる。本来「正義」なんてのは相対的なものなので、本来はなかなか正当化できる物ではないのだが、「死んでるより生きてる方が良い」とか「辛いより楽しい方が良い」とか「喧嘩してるより中がいい方が良い」とかあたりは中高生にとって受け入れやすい。これらを基本とした思想を掲げて、その教祖や周囲が異教徒を駆逐していく様は、暴力を肯定できるし、感情移入している自分をも肯定できるので、支持されやすい。
 前節で述べた通りCはAらの仲間になるが、Cもやむを得ない理由で戦っていた過去があり、それを「間違っていた」と完全に否定するにはそれなりの「正しさ」が必要である。この権威として、主人公が持つ思想が用いられ、その「正しさ」に抗うのは「自分に嘘をついている」などと否定されて、Cは周りに仲間がいない状態でAの仲間となる(仲間になる以外の選択肢を消される)。これは宗教の伝道の歴史と似ていないか。

・正義の相対化
 なんらかの思考回路を盲信すると言うことはすなわち「宗教」であり、宗教を盲信すると言うことは、その信者である自分自身を盲信すると言うことである。聖書などでセーブされない宗教は、暴力的な正義を生み出しやすく、危険だ。僕はこのような意味で「宗教」は特殊な概念ではないし、「正義」とは絶対的な物であってはならないと常々思っている。

 僕は「宗教的な作品」に出会ったとき、なにやら恐ろしい物を感じる。恐ろしいのはある意味当然で、「正義」は暴力的な物と相場が決まっているからだ。そして正義をもっとも効率よく生み出すのは宗教である。「宗教的な作品」に出会ったら、僕は必ず彼らに対し批判的な目を向ける。彼らを無条件に受け入れると言うことは、自分で考えることをやめ、自分の身を他人に任せることと同質だからだ。

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