2019年3月16日土曜日

アニメ感想「Steins;Gate」

Steins;Gate24話(地上波最終話)感想
クソ長文ですまん。しかも途中からギャルゲーの話になっている。

目次
・ハコ型タイムマシーンと電話レンジ(仮)
・寡兵での勝利
・ゲーム的リアリズムと努力の承認
・努力への報奨
・ヤンデレ向けのゲーム(まとめ)

・ハコ型タイムマシーンと電話レンジ(仮)
 とても面白かった。タイムマシーンというとドラえもんの道具や、ウェルズの小説のように、乗って過去に行くというのが主流であろうが、Steins;Gateの電話レンジ(仮)は過去の自分に記憶をぶち込むというもので、知らない概念を知ることができた。ハルヒでは、前者は朝比奈、後者は長門が使っている(しかも、未来にも「行ける」)ように思う。
 ハコ型タイムマシーンの良いところは、過去の自分と未来の自分が別行動をとれるところ、電話レンジ(仮)の良いところは、タイムパラドックスが起きないところだろう。タイムパラドックスが起きないのは非常に良いと思う。なんか現実的に見えるから。物質(人の体)を飛ばすより、情報(電波)を飛ばすだけの方が簡単そうだしね。
電話レンジ(仮)のおかげで、後半の岡部はβ世界線上をタイムパラドックスの心配なしに何十回も時間遡航をした。Dメールも、何通も送った。しかし、α世界線とβ世界線との行き来はできても、シュタインズゲート世界線に到達することはできなかった。電話レンジ(仮)は紅莉栖が生きていてまゆりが死ぬ運命にあるβ世界線の産物だが、SG世界線には電話レンジ(仮)の無いα世界線からしか行けないからだ。また、鈴羽が未来から来なければ、岡部は紅莉栖の死を苦々しく受け入れてα世界線を生きただろう。それはそれで、幕の引き方としてはアリだと思う。β世界線からα世界線への回帰は、中盤の岡部が追い求めた目標だから。しかしそこまで物語を追った者は、やはり、紅莉栖の生を望む。
23話、24話ではハコ型のタイムマシーンが登場。まゆりと行動を共にしていた過去の岡部とは別に、岡部が2人、同時刻にいたことになる(……のか?24話には23話の岡部が出てこなかった気がするが、いつ消えたのだろう?「オペレーションスクルド」が発動した時かな?見直そう。後で編集する。しかし、少なくとも1人はいた)。最終的に、刺されたように見せることで紅莉栖は逆説的に刺されず、助かった。よかったね。

・寡兵での勝利
 β世界線での悪役は専らCERNやラウンダーだったが、彼らをぶん殴って更正させるのではなく、情報戦でα世界線まで逃げおおせるのも面白かった。橋田のハッキング技術や紅莉栖の科学力にも舌を巻くところだが、CERNは無視できない規模を持った機関で対抗はほぼ不可能(……だったっけ?Mr.ブラウンが何者だったのか忘れたのでちょい不正確)。ヒーロー物の物語では、よく寡兵が大立ち回りで圧倒的多数に勝つことがあるが、それらに対する問い掛けにもなっているかもしれない。まあ、こちらからの攻撃は、ちまちまメールを取り消したりして、いかにも地味だが……。しかも、結局フェイリスなどがリーディングシュタイナーを発揮しなければ、途中で挫折していたように思う。原作は知らんが、もうちょっとうまくはやってるだろう。

・ゲーム的リアリズムと努力の承認
 Steins;Gateは、東浩紀が述べた「ゲーム的リアリズム」に基づく作品である。僕が思うに、ゲーム的リアリズムという世界の最終的な落とし所は、「努力してきたことが全て報われる」という所にある。世の中、「起きてしまったことは戻らない。未来に起こることは、神のみが知ることで、我々は人事を尽くして天命を待つだけだ」。それが従来の考え方なら、ゲーム的リアリズムは、「自分が『選択』し行動したことに限って、理不尽は許さない。自分の努力によって、自分の理想は具現化する」といった感じだろうか。ある意味、非常にわがままな考え方だが、自分が努力しようと「選択」した物事に対する集中力は目をみはるものがある。ただし、何度もやり直せる物事に限るが。
 紅莉栖の死、フェイリスの父の死や瑠伽の想いなどを踏み付けにして、岡部とともにボロボロになりながらα世界線までたどり着いたプレイヤーは、愛する紅莉栖を助ける手段があるなら、何でもするだろう。その手段が世界全てを救うというなら、なおさらだ。濃密な三週間を経て……遡航し再会した紅莉栖。そして最終盤、彼女を助けるために必死に努力したのが岡部=プレイヤーだと、誰に認めてほしいか。紅莉栖本人に決まっている。24話の最後に、紅莉栖はリーディングシュタイナーを発揮し、岡部の苦労をいたわり、努力を認めた。なお、まゆりを助けたことは、22話でしっかりまゆりによって認められている。丁寧なことだ。

・努力への報奨
 ゲーム、特にビジュアルノベル方式のゲーム(以下、単に『ゲーム』)には、「全クリ」したときの達成感、もしくは「キリ」が必要だ。そのゲームが終わったら、次をクリアーする作業に取り掛からねばならない(!)からだ。だから、「ヒロインを攻略する」以外にも、選択肢を全部通らないと画像をコンプリートできなかったりして、それが苦労や難易度に相当する。攻略サイト無しでは画像のコンプリートどころかヒロインの攻略すら覚束ないようなゲームさえある(僕が以前プレイした『Prismaticalization』のことだ)。コンプリートに至ったとき、プレイヤーはその読後感と、達成感を噛み締める。それが味気ないものだったとき、ゲームは「駄作」と罵られるかもしれない。コンプリート自体が特に大きな意味が無い場合は、そういうことがままある。
 そこで、「CLANNAD」などでは、全てのルートを回った後にその先の内容が語られるルートが開放され、「祝福のカンパネラ」や多くのビジュアルノベル系ゲームでは、ルートを規定数攻略するとサブキャラのルートや全てのヒロインを一手にできる「ハーレムルート」が開いたりする。これらの要素が最初は開いていないのは、テキストを読み選択肢を正しく選んだという「努力」への「承認」に使うためにあえて閉じてあるからだ。また、本編の内容が暗ければ暗いほど、後で開放されるルートは明るくなっている。「努力」が「承認」されたのだ。たとえば、「ひぐらしのなく頃に」の各章を読み終わると、登場人物による茶飲み話が読める。陰惨になりすぎた終盤から、口直しをして明るい次章の冒頭につなげるためとも考えられるかもしれないが、僕はこの茶飲み話を「よく読んでくだすった。」という、作者から読者への報奨とみる。

・ヤンデレ向けのゲーム(まとめ)
 つまり、ゲーム内の世界は「基本的に自分の思い通りにならないと不満」で、「自分が否定されることはとんでもなく不快」なのだろう。「数千円も払ってわざわざプレイしてやってる」のだから当たり前だが……どこのヤンデレだよ。そこには、以前一般的なゲームに求められていたはずの「難易度」や、「プレイ時の楽しさ」はあまり重要視されず、世界観と思考を誘導する要素、プレイした後に「努力したナア。」と錯覚させる何か、その「努力」に対する「報奨」があれば、ビジュアルノベル系のゲームは成立することになる。このへんに注目すると、今後これらのゲームを面白くプレイできる気がする。

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